KATZのFLEURCAFE

KATZのフルールカフェへようこそ!!フルールカフェではKATZが収集した本・CD・DVDなどを中心に気ままに展示し,皆さまのお越しをお待ちしております。ご自由にお愉しみくださいませ。よろしくお願い申し上げます。ほぼ毎日更新中でございます。

カテゴリ: きょうのひとこと

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 ものの良さがわかるということは明治以来だんだんむずかしくなってきている。
 現代は他人の短所はわかっても長所はなかなかわからない、そんな風潮が支
 配している時代なのだから、学問の良さ、芸術の良さもなかなかわからない。

 しかし、そこを骨を折ってやってもらわなねば、心の芽のいきいきとした子は決し
 て育たない。
 教育というものは、ものの良さが本当にわかるようにするのが第一義ではなかろうか。


  岡潔「情緒と日本人」P140 2008年PHP研究所刊

 

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  頭

 創造についてですが、一日一日を心から生きるのは創造です。

 何も学術上の発見発明や、芸術上の創作ばかりではありません。


  岡潔 「春風夏雨」P167 2014年角川ソフィア文庫刊

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 幼稚園の子どもの中に、まれには花の美しさのわかる子がいるのです。

 その子にだけなぜわかるかというと、その子はほかの子供よりも花に

 注意を集めることができる。

 心を花のところに集めることができる。

 そこだけがちがっているのです。 『風蘭』 


  岡潔「情緒と日本人」P142・143 2008年PHP研究所刊

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 私の友人の秋月(康夫)君が、ある若い数学者に「君のクラスにはよく出来る

 人が多いが、なぜだろう」と聞くと、その男は「それは先生がいなかったからで

 す」答えたということです。 『紫の火花』  


  岡潔「情緒と日本人」P174 2008年PHP研究所刊 

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 情緒を形に表現することは大自然がしてくれるのであるから、
 大自然に任せておいて、人は自分の分につとめるべきである。

 情緒を清く、豊かに、深くしてゆくのが人の本分であろう。

 これが人類の向上ではなかろうか。 『紫の火花』


  岡潔「情緒と日本人」P59 2008年PHP研究所刊

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 寺田先生は線香花火をずいぶん研究された。
 これは鉄の火花のもつ不思議な性質の秘密に強く心を
 ひかれたためである。

 散り菊も松葉もそのある瞬間のスパーク(火花)の形を
 いい現すための名称である。


  岡潔「春風夏雨」P133 2014年角川ソフィア文庫刊 

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 寺田寅彦先生は理研の若い人たちにこういった。

 今自分はイルリバージブル(不可逆)な現象を研究しようと思って、
 ガラスの割れ目を調べている。

 ところで、毎日毎日見ていると、しまいにガラスの割れ目が大きな
 渓谷のように見えてくる。

 そのころになって、自然はポツリ、ポツリとその秘密を洩らし始める。


   岡潔「春風夏雨」P128  角川ソフィア文庫刊
  

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   懈怠の心 第九二弾

 ある人、弓射ることを習ふに、もろ矢をたばさみて的に向ふ。
 師の言はく、「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。
 後の矢をたのみて、はじめの矢に等閑の心あり。
 毎度ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へ」といふ。
 わずかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思は
 んや。
 懈怠の心、みずから知らずといへども、師これを知る。
 この戒め、万事にわたるべし。

 道を学する人、夕には朝あらんことを思ひて、重ねてねんごろ
 に修せんことを期す。
 いはんや、一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らんや。
 なんぞ、ただ今の一念において直ちにすることの、甚だ難き。


 ある人が弓を射ることを習うのに、二本の矢を手に持って的に向かった。
 すると師匠が言うことは、「初心の人は、二つの矢を持ってはいけない。
 後の矢をあてにして、はじめの矢にいい加減な気持ちが起こる。
 射るたびにただ雑念を払って、この一つの矢に集中しなければならぬと
 思いなさい」というものだった。
 わずかに二つの矢しかないものを、師匠の前でその一つをいい加減に
 射ようと思うだろうか、それでも気が緩んでしまうのだ。
 怠け心というのは、自分では気がつかないといっても、師匠はこれを見
 抜いているのだ。
 この戒めは、すべての事に通じるはずである。

 道を学ぶ人は、夕には朝があることを思い、朝には夕があることを思って、
 そのときにまとめてしっかりと修める腹づもりになる。
 一日という時間の中でもそうなのだから、ましてや、一瞬間のうちにおいて、
 怠け心が起こることを自覚するはずがあろうか。
 なんと、事を思い立ったその時の一瞬において直ちになすべき事をすること
 が、甚だ難しいことか。

  「徒然草・方丈記」大伴茫人編P161~163 ちくま文庫刊
  

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  人の臨終の有様について 第一四三段

 人の終焉の有様の、いみじかりし事など、人の語るを聞くに、ただ「しずかにし
 で乱れず」といはば、心にくかるべきを、愚かなる人は、怪しく異なる相を語り
 つけ、いひし言葉も振舞ひも、おのれが好む方にほめなすこそ、その人の日来
 の本意にもあらずやと覚ゆれ。
 この大事は、権化の人も定むべからず、博士の士もはかるべからず。
 おのれ違ふところなくば、人の見聞くにはよるべからず。


 人の臨終の有様が素晴らしかった事などを、人が語るのを聞くと、ただ「穏やか
 で取り乱さかった」と言えば、すぐれたものっと感じるはずなのに、愚かな人は、
 信じられない不思議な様相を付け加えて語り、いまわの際に遺した言葉も振舞
 いも、自分の好きなように解釈して褒めるけれども、それこそ亡くなった人の平
 素の志とは違ってもいるだろうと思われる。
 この臨終という大事は、権化の人であっても定めることができず、博士の士であ
 っても推察できるものではない、ましてやただ人などにわかるはずがないものだ。
 その当人さえ心乱れることがなければ、人が見聞きしてその死に様の良し悪しを
 決めるべきことではない。

    「徒然草・方丈記」大伴茫人編P220・221 ちくま文庫刊

 

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  神の社の有様  第二四段

 斎宮の、野宮におはします有様こそ、やさしく、面白き事のかぎり
 とは覚えしか。
 経・仏など忌みて、中子・染紙など言ふなるもかし。

 すべて神の社こそ、捨て難くなまめかしきものなれや。
 ものふりたる森のけしきもただならぬに、玉垣わたして、榊に木綿
 かけたるなど、いみじからぬかは。
 ことにおかしきは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・吉田
 大原野・松尾・梅宮。


 斎宮の、野宮においでになる有様こそ、優美であり、趣ある事柄の極
 み と思われた。経や仏などを避けて、「中子・染紙」などと言うのも興
 味深い。

 総じて神社こそ、思い捨てがたく雅趣のあるものであるよ。
 どことなく古びた森の様子も由緒ありげで、玉垣をめぐらせて榊に木綿
 をかけてある有様などは、たまらないではないか。
 ことに素晴らしいのは、伊勢・賀茂・春日・平野・住吉・三輪・貴布禰・
 吉田・大原野・松尾・梅宮 。


  「徒然草・方丈記」P76・77 大伴茫人編 ちくま文庫刊 

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  簡素をよしとする 第二段

 いにしへの聖の御代の政をも忘れ、民の愁へ、国の損なわるるも 
 知らず、よろづにきよらを尽していみじと思い、所狭きさましたる人
 こそ、うたて、思ふところなく見ゆれ。

 「衣冠より馬・車にいたるまで、あるに従ひて用よ。美麗を求むる事
 なかれ」とぞ、九条殿の遺誡にも侍る。順徳院の禁中の事ども書か
 せ給へるにも、「おほやけの奉り物は、おろそかなるをもてよしとす
 る」とこそ侍れ。


 昔の聖帝の御代の政治も忘れて、民が憂い嘆き、国が破滅するのも
 知らないで、何事にも華美を尽して立派なことをしているつもりになり、
 ご大層な様子をしている人こそ、情けなくも、思慮分別がないと思われ
 る。

 「衣冠をはじめ馬・車にいたるまで、あるもので間に合わせて用いよ。
  美麗に飾ることを欲してはならない」と、九条殿の遺誡にも書いて
  ございます。
  順徳院が宮中の事々をお書きなさったのも、「天皇のお召し物は
  簡素であることをもって良しとする」とございます。


   「徒然草・方丈記」P29・30 大伴茫人編 ちくま文庫刊
 

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  読書の楽しみ  第十三段

 ひとり燈火のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、
 こよのう慰むわざなる。

 文は文選のあはれなる巻々、白氏の文集、老子のことば、南華
 の篇。この国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あわれな
 る こと多かれ。


 一人で、燈火の下で書物をひろげて、知らない昔の世の人を友と
 することこそ、なによりも心の慰むことだ。

 書物は、「文選」の感慨深い巻々・「白氏文集」・「老子」・「荘子」が
 よい。日本の学者たちの書いた書物も、昔のものは、感慨が深い
 ことが多い。


   「徒然草・方丈記」P57・58  ちくま文庫刊

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  無益の談話 第一六四段

 世の人あひ会ふ時、暫くも黙示することなし。
 必ず言葉あり。
 その事を聞くに、多くは無益の談なり。
 世間の浮説、人の是非、自他のために失多く得少し。
 これを語る時、たがひの心に、無益の事なりということを知らず。

 世の中の人が出合う時、しばらくもだまっていることがない。
 必ず何かしゃべっている。
 その言っている事を聞くと、多くは無益の談話である。
 世間の噂話、人の良し悪し、そんな話は自分のためにも他人の
 ためにも損が多く得は少ない。
 これを語る時に、お互いどちらの心にも、無益の事をしているとい
 うことが わかっていない。


  「徒然草・方丈記」 P232  ちくま文庫刊

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   字の下手な人  第三五段

 手のわろき人の、はばからず文書きちらすはよし。

 見ぐるしとて、人に書かするはうるさし。


 字の下手なひとが、気にかけないでどんどん書くのはよいことだ。

 見苦しいからといって、人に代筆させるのはわざとらしくて嫌味く

 さい。 


   「徒然草・方丈記」P97  ちくま文庫刊 

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   細工師の刀   第二二九段

 よき細工は、少し鈍き刀を使ふといふ。
 妙観が刀はいたく立たず。


 よい細工師は、少し鈍い刀を使うという。
 妙観のかたなはたいして鋭いものではない。

 
  「徒然草・方丈記」P277  ちくま文庫刊

 

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       第十六段

   神楽と楽器

 神楽こそ、なまめかしく、おもしろけれ。

 おほかた、ものの音には、笛・篳篥。

 常に聞きたきは、琵琶・和琴。


 神楽こそ、優雅で、心が晴れる。

 一般に、楽器の音としては、笛と篳篥がよい。

 常に聞きたいと思うのは、琵琶と和琴。


   「徒然草・方丈記」P66  ちくま文庫刊 

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    生命

  記憶を逆にたどってみても、出来事の前後関係などがわかりかける
  のは、メロディーができ上がった数え年四歳以後である。メロディーは
  人の肉体の脳幹部に閉じこめられているものではなく、エーテルのよ
  うに、すべての時空にわたって遍満しているのである。あまねく時空に
  満ちているといえば、広く大きいものなのかとなるが、そうではない。
  時空のない世界にあるのだ。

   「春風夏雨」P18   角川ソフィア文庫 

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    幼年時の問い  第ニ四三段(終段)

  八つになりし年、父に問ひていわく、「仏はいかなるものにか候ふらん」

  といふ。父がいはく、「仏は人の成りたるなり」と。また問ふ、「人は何とし

  て仏には成り候ふやらん」と。父また、「仏の教へによりて成るなり」と答

  ふ 。また問ふ、「教へ候ひける仏をば、なにが教へ候ひける」と。また答

  ふ、「それもまた、さきの仏の教へによりて成り給ふなり」と。また問ふ、

  「その教へはじめ候ひける第一の仏は、いかなる仏にか候ひける」という

  時、父、「空よりや降りたりけん、土よりや湧きけん、土よりや湧きけん」と

  言ひて笑ふ。

  「問ひつめられて、え答へずなり侍りつ」と、諸人に語りて興じき。


  八歳になった年、父に尋ねたのは、「仏はどういうものでありますのでしょう

  か」ということだった。父が答えるには、「仏は人が修行して成ったものだ」と。

  また尋ねて、「人はどうやって仏になるのでしょう」と。父がまた、「 仏の教え

  によって成るのだ」と答えた。また尋ねて、「教えてくださった仏を、何が教え

  ましたのですか」と。また答えて、「それもまた、それ以前の仏の教えによって

  お成りなさったのだ」と。また尋ねて、「その教え始めなさった第一の仏は、ど

  のような 仏でありましたのでしょうか」と言った時、父は「空より降ったのだろ

  うか、土より湧き出たのだろうか」と言って笑った。

  そののち父は、「問い詰められて、答えられなくなってしまいました」と、人々に

  語って愉快がっていた。


    「徒然草・方丈記」P288・289   ちくま文庫刊 

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      鰹の扱い方   第一一九段

   鎌倉の海に鰹という魚は、かの境にはさうなき物にて、このごろもてなす

   ものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、おのれら若かり

   し世までは、はかばかしき人の前へ出づくること侍らざりき。頭は下部も食

   はず、切り捨て侍りしものなり」と申しき。かやうな物も、世の末になれば上

   ざままでも入り立つわざにこそ侍れ。


   鎌倉の海で鰹 という魚は、あの土地では無上の物で、近頃もてはやされて

   いる。それでも、鎌倉の年寄が申しましたには、「この魚は、私らが若かった

   時代までは、まともな人の前には出ることはございませんでした。頭は下賎な

   者でも食べずに、切り捨てましたものです」ということだった。このような物

   も、末世になると上層の食卓にまで 入り込むことでございます。


     「徒然草・方丈記」P184    ちくま文庫刊 

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     生命(続く)

   ところで、このメロディーを包むために時空がある。人のメロディーは時空のガラス

  戸の中に保護されているわけである。大自然はそんなふうにして人を作っているよう

  に見える。


   しかし、時空は本来” ある”というものではない。本当は時空の中にメロディーがある

  のではなく、メロディーに中に時空があるといえる。


      「春風夏雨」 P18

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    生命(つづく)

  「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」の世界、無差別智の大海

 の中からとってくるのだ。幼な児にはそんなことはできないと思うには何も知ら

 ないからだといってよい。

    
    岡潔「春風夏雨」P18   角川ソフィア文庫 

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      生命(続く)

   姉と妹でこんなに違うというのはなぜだろうか。性格を作るのは環境だとか

  いうけれど、そんな、いまそこにあるもので説明できるものではない。幼な児

  がそのメロディーの彩りをとってくるのは、そんな三次元的な世界からではない。 


    「春風夏雨」P17・18    角川ソフィア文庫刊 

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     吉凶は日によらない  第九十一段


    赤舌日という事、陰陽道には事なき事なり。昔の人これを忌まず。このごろ、
   何者の言ひ出でて、忌み始めけるにしか。「この日ある事、末とほらず」といひて、
   「その日、言ひたりし事したりし事かなわず得たりし物失ひつ。企てたりし事ならず」
   といふ、愚かなり。吉日を撰びてなしたるわざの末とほらぬを数えて見んも、また等
   しかるべし。

    そのゆゑは、無常変易の境、有りと見るものも存ぜず、始めある事も終わりなし。
   志は遂げず、望みは絶えず。人の心不定なり。物みな幻化なり、何事か暫くも住す
   る。この理を知らざるなり。「吉日に悪をなすに必ず凶なり。悪日に善を行ふに必ず
   吉なり」といへり。吉凶は人によりて日によらず。

    (語釈)赤舌日 赤舌神という神が六鬼を当番としてある門を守らせるがそのうち
   一鬼が凶暴なのでその当番日を忌む。


     赤舌日という事柄は、陰陽道では問題にしない項目である。昔の人はこれを避
   けなかった。近ごろ、何者が言い出して避け始めたのか。「この日にする事は、末を
   とげない」といって、「その日,言った事やした事は成就しない。得たものは失ってし
   まう。企てた事はできない」とするのは愚かである。その証拠に、吉日を選んでした
   事の結果がよくない場合を数えて見ても、また赤舌日にしたことの結果と同じような
   ものであるに違いない。

             その理由は、一切の物事が無常で変移してやまないこの世界では、有ると見え
   るものも本質としては存在せず、始めにあった状態も終わりには違ったものになって
   いてない。志は遂げられず、欲望は次々わきおこって絶えることがない。人の心は
   一定であることはなく、物はみな幻のように実体がないのであり、どんな物事がわず
   かな間でも変わらずにあるだろうか。赤舌日を忌むなどというのはこの道理をわかっ
   ていないのだ。「吉日にであっても悪を行えば必ず凶になる。悪日にであっても善を
   行えば必ず吉になる」ということである。吉凶は人の行いによるのであって特定の日
   によるのではない。


    「徒然草・方丈記」P158-160   ちくま文庫刊
   
  



    

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     生命(続く)

    私には孫が二人いる。上は六歳の女児、下は四歳の男児であるが、二人を比べると、

   メロディーの彩りは男と女の違いを超えてまるきり違っている。色彩にたとえれば、全部

   合わせれば白になるというあの「色環」から上の子が幾つかの色を選びとり、残っている

   ものを下の子がとるのではないかと思えるほど違っている。どんな色かと問われるとむずか

   しいが、強いていうなら上の子は桃色、下の子は黄色という感じだろうか。喜びという情緒

   一つとっても、上の子はある瞬間の鋭い喜びを見せるし、下の子は、鋭くはないがいつも

   「普遍的な」といっていいような喜びに包まれている。本当はどちらもいるので、両方合わせ
 
   ればうまくいくと思われるのだが。

      
      「春風夏雨」P17     角川ソフィア文庫

        

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     生命(続く)

    幼児の生い立ちを見ると、情緒のメロディーは一人一人みな異なった彩りを持っている。 

  幼児はそのメロディーを作るのに実は骨を折っている。私は四月生まれなので、四月生ま

  れに例をとると、数え年の一歳は全くそれにかかりきって、最も基礎的なものを用意してい

  る。

    二歳、三歳ではいろいろなしぐさや言葉を繰り返すことによって、メロディーをはっきりした

     形に 残そうとしている。このメロディーが一人一人みな異っている。


    岡潔「春風夏雨」P17  角川ソフィア文庫 

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       確実に来るものは老死  第七十四段

   蟻のごとくに集まりて、東西に急ぎ南北に走る。高きあり賤しきあり。老いたる
  あり。若きあり。行く所あり帰る家あり。夕に寝ねて朝に起く。営むところ何事ぞや。
  生を貪り利を求めて、やむ時なし。

   身を養ひて、何事をか待つ。期する所、ただ老と死とにあり。その来ること速やか
  にして、念々の間にとどまらず。これを待つ間、何の楽しびかあらん。惑へる者は、
  これを恐れず。名利に溺れて、先途の近きことをかえりみねばなり。愚かなる人は、
  また、これを悲しぶ。常住ならんことを思ひて、変化の理を知らねばなり。


   蟻のように集まって、東西南北あちらこちらに忙しなくうごきまわっている。身分の
  高い者もおり賤しい者もいる。老いた者もおり若い者もいる。行くところもあれば帰る
  家もある。夜に寝て朝に起きる。このようにして世間の人々が営々として行っている
  のは何事だというのか。生に執着し利益を求めて、止む時がないのだ。

   我が一身を大切にして、何事を待つというのか。結局望めるものは、老いと死とい
  うことになる。そのやって来ることは速やかで、どの瞬間にもとどまらない。これを
  待つ間に、何の楽しみがあるだろうか。迷っている者は、これを恐れない。名利に
  目がくらんで、行く先の近いことを思いみないからである。愚かな人はまた、これを
  悲しむ。現世に永遠に住むことを願って、万物は変化して行くという道理を理解して
  いないからである。

     「徒然草・方丈記」P140・141   ちくま文庫刊 
   

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      名で面影が浮かぶ   第七十一段

    名を聞くよりやがて面影はおしはからるる心地するを,見る時はまた、かねて思

   ふつるままの顔したる人こそなけれ。

     昔物語を聞きても,このごろの人のそこほどにてぞありけんと覚え、人も今見る人

   の中に思ひよそへらるるは、誰もかく覚ゆるにや。

     また、如何なる折ぞ、ただ今、人の言ふ事も、目に見ゆる物、わが心のうちも、「か

   かる事のいつぞやありしは」と覚えて、いつとは思い出でねども、まさしくありし心地の

   するは、我ばかりかく思ふにや。


      名を聞くとすぐにその人の顔つきが自然に思い浮かんでくるような気がするのに、

    実際は見る時にはまた、前もって思っていたとおりの顔をしている人というのはいない

    ものだ。

      昔物語を聞いても、その家は現在の人の家のどこらあたりにあったのだろうと思わ

    れ、物語に出てくる人も今見る人の中になぞらえられるというのは、私ばかりでなく誰

    でもそう思われるのだろうか。

       また、何かの折に、たった今、人の言う事も、目に見える物も、自分の心に思うこと

     も、「こうした事がいつだかあったなあ」と思われて、いつとは思い出さないけれど、まさ

     しくあったという気持ちになるのは、私ばかりがそう思うのだろうか。


        「徒然草・方丈記」P133-135  ちくま文庫刊

     

 

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      生命(続く)

    心の芽は外からの塵にもまみれるが、それだけでなく、自分の中から悪いものが

  でてきて、そのために悪くなる。これが虫にたとえられる。この両者から芽を守るのが

  道義なのである。

    道義の根本は、ややもすれば自分を先にして他人を後にしようする本能をおさえて、

  他人を先に、自分を後にすることにあるといってよい。 


              「春風夏雨」p16   角川ソフィア文庫刊

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        心慰むもの  第二十一段

  よろずのことは、月見るにこそ慰むものなれ。ある人の、「月ばかり面白きもの
 はあらじ」と言ひしに、また一人、「露こそあわれなれ」と争ひしこそ、をかしけれ。
 折にふれば、何かはあはれならざらん。

  月・花はさらなり。風のみこそ、人に心はつくめれ。岩に砕けて清く流るる水の
 けしきこそ、時をもわかずめでたけれ。人遠く水草清き所にさまよひありきたるば
 かり、心なぐさむ事はあらじ。

  
  すべての思いは、月を見ることで慰むものだ。ある人が、「月ほど面白いものは
 あるまい」と言ったのに対し、また一人が、「露こそ心にしみる」と言い争ったのこ
 そ、興深いものだった。折に叶ったものならば、何に感じないことがあるだろうか。

  月や花は言うまでもない。風こそとりわけ人に深い風情を感じさせるもののようだ。
 また、岩にあたり砕けて清らかに流れる水の有り様こそ、いつに限らず素晴らしい。
 人里離れて水草の清らかな所をさまよいめぐっていることほど、心が慰むことはあ
 るまい。

   「徒然草・方丈記」p72・73    ちくま文庫刊
 

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      生命(続く)

   キリスト教はここを、巧みにいい表している。

    天つ真清水受けずして
    罪に枯れたるひとくさの 
    栄えの花いかで咲くべき
    そそげいのちの真清水を (賛美歌)

   そこで、どうすればこの生命の緑の芽をいきいきと保てるかであるが、一つは塵に
  まみれたり虫に食われないよう、よく保護すること、もう一つは絶えずきれい水を注い
  でやることだろう。
 

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       元暦の大地震

    また、同じころかとよ、おびたたしく大地震が振ること侍りき。
   そのさま、世の常ならず。山は崩れて河を埋み、海は傾きて陸地をひたせり。
   土裂けて、水涌き出で、巖割れて谷にまろび入る。なぎさ漕ぐ船は波にただよひ、
   道行く馬は立ち所をまどはす。都のほとりには、在在所所、堂舎塔廟、一つとして
   全からず。

     或は崩れ、或は倒れぬ。塵灰たちのぼりて、盛りなる煙のごとし。地の動き、家
   の破るる音、雷にことならず。家の内にをれば、忽にひしげなんとす。走り出づれ
   ば、地割れ裂く。羽なければ、空をも飛ぶべからず。龍ならばや、雲にも乗らむ。恐
   れの中に恐るべかりけるはただ地震なりけり、とこそ覚え侍りしか。

    その中に、或る武士のひとり子の六七ばかりに侍りしが、築地のおほひの下に小
   家を作りて、はかなげなるあどなし事をして遊び侍りしが、俄にくづ れ、埋められて、
   跡形なく平にうちひさがれて、二つの目など、一寸ばかりづつうち出されたるを、父母
   かかへて、声を惜しまず悲しみあひて侍りしこそ、哀れに悲しく見侍りしか。子の悲し
   みには、猛き者も恥を忘れけりと覚えて、いとほしくことわりかなとぞ見侍りき。 

    かく、おびただしく振る事は、しばしにて止みにしかども、その名残、しばしば絶えず。
   世の常驚くほどの地震、二三十度振らぬ日はなし。十日・廿日過ぎにしかば、やうやう
   間遠になりて、或は四五度、二三度、もしは一日まぜ、二三日に一度など、おほかた、
   そのなごり、三月ばかりや侍りけむ。 

    四大種の中に、水・火・風は常に害をなせど、大地にいたりては、ことなる変をなさず。
   昔、斉衡のころとか、大地震振りて、東大寺の仏の御首落ちなど、いみじき事ども侍り
   けれど、なほこのたびにはしかずとぞ。すなはちは、人みな、あぢきなき事を述べて、い
   ささか心の濁りも薄らぐと見えしかど、月日かさなり、年経にし後は、ことばにかけて云
   ひ出づ る人だになし。


    また、同じ頃だったか、ひどく激しく大地震が地面を震わせたことがありました。
   その様相は、尋常のものではない。山は崩れて川を埋め、海からは津波が押し寄せて
   陸地を浸した。土が裂け水が湧き出て、岩石は割れて谷に転がり落ちる。渚を漕ぐ船は
   波に翻弄され、道を行く馬は足の踏み場が定まらない。都の付近では、そこここ至るとこ
   ろの建築物が一つとしてまともな姿をとどめない。

    ある物は崩れ、ある物は倒れてしまった。塵や灰がたちのぼって、もうもうと上がる煙の
   ようである。地面の動きと家の壊れる音は、雷が鳴り響くのと異ならない。家の中にいれば
   、あっという間に、押しつぶされそうになる。走り出れば、地面が割れて裂ける。羽がないの
   で、空を飛んで行くわけにもいかない。もし龍であったら、雲にも乗れようが。恐ろしいもの
   の中でもなお恐ろしいものはほかでもなく地震だったのだ、と感じられたことでした。

    その中で、ある武士の一人子で六、七歳ほどでありましたのが、土塀の屋根の下に小家
   を作って、たわいもないあどけない事をして遊んでいましたのが、突然に崩れ、埋められ
   て、形もとどめないほどにぺしゃんこに押しつぶされて、二つの目などが一寸ほどずつも飛
   び出していたのを、父母が抱えて、声を惜しまず悲しみ合っていました姿を、まことに哀れ
   に悲しく見たことです。子を失った悲しみには、勇猛な者でも恥を忘れるのだったと思われ
   て、気の毒でもっともなことだと見たことだった。 

    これほど激しく震わす事は、少しの間でやんだけれども、その名残はしばらく絶えなかっ
   た。尋常の時ならば驚くほどの地震が、二三十度起こらない日は ない。十日・二十日と過
   ぎてしまうと、ようやく間遠になって、日によって、四五度や二三度、もしくは一日おき、二三
   日に一度になり、だいたい、その名残は三ヶ月ほどもありましただろうか。

    四大種の中で、水・火・風はいつでも害を与えるけれど、大地の場合は、特別の変異を起
   こさないものだ。昔、斉衡のころとかに、大地震が起こって、東大寺の仏像の首が落ちるな
   ど、大変なこともありましたそうだけれど、それでもこの時の地震ほどではなかったという。
   それほどの地震のあった当座には、人は皆、この世の空しい事を口にして、少しは心の濁
   りも薄らぐように見えたけれども、月日が重なり、年も経ってからは、言葉に出して言い出す
   人さえいない。 

        元暦二年(文治元年・1185年) 

      「方丈記 」p321-325     大伴茫人編 ちくま文庫刊

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      悪い友 良い友

   友とするにわろき者、七つあり。

   一つには高くやんごとなき人、二つには若き人、三つには病なく身強き人、

   四つには酒を好むひと、五つにはたけく勇める兵、六つには虚事するひと、

   七つには欲深き人。

   よき友三つあり。

   一つには物くるる友、二つには薬師、三つには知恵ある友。


   友とするのによくない者が七種ある。

   一つには、身分が高く尊い人。二つには若い人、三つには病気がなくて身体

   の強い人、四つには酒を好む人、五つにははやりたって勇んでいる兵士、

   六つには嘘をつく人、七つには欲の深い人。

   よい友に三種ある。

   一つには物をくれる友、二つには医者、三つには知恵のある友。

    「徒然草・方丈記」p182・3     ちくま文庫刊

    

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       生命(続く)

   生命の緑の芽の青々とした人なら、冬枯れの野に大根畑を見れば、あそこに

  生命があるとすぐわかる。生命が生命を認識するのである。こうした人

  には真善美の実在することもわかる。

    「春風夏雨」p15     角川ソフィア文庫刊 

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         生命(続く)

   人の情緒は固有のメロディーで、その中に流れと彩りと輝きがある。
  そのメロディーがいきいきしていると、生命の緑の芽も青々としている。
  そんな人には、何を見ても深い彩りや輝きの中に見えるだろう。

   ところが、この芽が色あせてきたり、枯れてしまったりしている人がある。
  そんな人には何を見ても枯野のようにしか見えないだろう。

     「春風夏雨」p15    角川ソフィア文庫刊 

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         生命(続)

    私たちは物質現象にすぎないものを間違って生命と思って来たようである。

  「生きている」という言葉を学校で教えるとき ”ミミズが生きている” などという

  例をあげるのが間違いなので、あれは物質の運動にすぎない。冬枯れの野の

  大根やネギが生きているというのが本当なのである。


       「春風夏雨」p14・15      角川ソフィア文庫 

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          生命(続く)

    幼児の生い立ちを見ると、情緒のメロディーは一人一人みな異なりを
   持っている。幼児はそのメロディーを作るのに実に骨を折っている。

    私は4月生まれなので、4月生まれに例をとると、数え年の一歳は全くそれに
   かかりきって、最も基礎的なものを用意している。二歳、三歳ではいろい
   ろなしぐさや言葉を繰り返すことによって、メロディーをはっきりした形に
   残そうとしている。

    このメロディーが一人一人がみな異なっている。 



       「春風夏雨」p17      角川ソフィア文庫          

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       しかし、時空は本来”ある”というものではない。本当は時空の中にメロディーがある
  のではなく、メロディーの中に時空があるといえる。

   このメロディーが生命なのだから、生命が滅びたりまたそれができたりといった時空の
  わくの内の出来事とは全く無関係に存在し続けるものなのである。そして、人類が向上
  するというのは、無限の時間に向かってこのメロディーが深まってゆくことにほかならない。 

     「春風夏雨」p18・19   角川ソフィア文庫 

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        治承の辻風    

   また、治承 四年卯月のころ、中御門京極のほどより大きなる辻風おこりて、
  六条わたりまで吹ける事侍りき。

   三四町を吹きまくる間に、こもれる家ども、大きなるも小さきも一つとして破
  れざるはなし。さながら平に倒れたるもあり、桁・柱ばかり残れるもあり。門を
  吹きはなちて四五町がほかに置き、また垣を吹きはらいて隣と一つになせり。
  いはむや、家のうちの資材、数をつくして空にあり。檜皮・葺き板のたぐい、冬
  の木の葉の風に乱るるが如し。塵を煙の如く吹き立てたれば、すべて目も見
  えず。おびただしく鳴りどよむほどに、もの言ふ声も聞こえず。かの地獄の業
  の風なりとも、かばかりにこそはとぞおぼゆる。

   家の損亡せるのみにあらず。これを取り繕ふ間に、身をそこなひ片端づけ
  る人、数も知らず。この風、未の方に移りゆきて、多くの人の嘆きなせり。

   辻風は常に吹くものなれど、かかる事やある。ただ事にあらず、さるべきもの
  のさとしか、などぞ疑い侍りし。 


   また、治承四年4月のころ、中御門京極のあたりから大きなつむじ風が起こっ
  て、六条あたりまで吹いていった事がありました。

   三四町を吹きまくる間に、その範囲の内の家々は、大きいのも小さいのも一つ
  として壊れないものはなかった。そのままぺしゃんこに倒れたのもあれば、横木
  や柱ばかり残ったのもある。門を吹き飛ばして四五町も遠くに置き、また垣根を
  吹き払って二軒の敷地を一つにしてしまった。ましてや、家の内にあった家財道
  具は、一つ残らず空に舞い上がっている。檜皮 や葺板のたぐいは、冬の木の葉
  が風に乱れるような様相である。塵を煙のように拭きあげているので、まったく目
  も見えない。激しく鳴り響くので、ものを言う声も聞こえない。あの地獄の業の風で
  あっても、これくらいのものだと思われた。

    家が損失しただけではない。これを修繕しようとする間に身体を損なって不具に
  なった人が、数知らずいる。この風は、南西のほうに移って行って、多くの人の嘆き
  となった。

   つむじ風はいつでも吹くものではあるけれど、これほどの事があるだろうか。しかる
  べきもののお告げか、などと考え込んだものです。

    治承四年ー1180年

       徒然草・方丈記p301-303 大伴茫人編 ちくま文庫

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      名のつけ方   第百十六段

   寺院の号、さらぬよろずの物にも、名をつくること、昔の人は、少しも求めず、
  ただありのままに、やすくつけけるなり。このごろは、深く案じ、才覚をあらはさ
  んとしたるように聞ゆる、いとむつかし。

   人の名も、目なれぬ文字をつかんとする、益なき事なり。何事も、めずらしき
  事を求め、異説を好むは、浅才の人の必ずあることなりとぞ。 


   寺院の号や、そうではない様々の物にも、名をつけるについて、昔の人は、す
  こしもわざとらしくはせず、ただありのままに、さらっとつけたものだった。近頃は、
  深く趣向しを凝らして、才覚を示そうとしたように聞こえるが、たいそう煩わしい。
  
   人の名も、見なれない文字をつけようとするのは、意味のないことである。何事
  においても、珍しい事を案じ出し、異説を好むのは、浅学の人が必ずすることだと
  いう。

       徒然草・方丈記p181・182 大伴茫人編 ちくま文庫 

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    きれいな水というのは、たとえば先人たちの残してくれた文化の水である。これも
  子供を対象にしていうなら、先人の残した学問、芸術、身を以って行なった 善行、人
  の世の美しい物語、こうしたいろいろの良いものを知らせるのが大切であろう。

        ものの 良さがわかるとということは明治以来だんだんむずかしくなってきている。現代
  は短所はわかっても長所はなかなかわからない、そんな風潮が支配している時代なの
  だから、学問の良さ、芸術の良さもなかなかわからない。

    しかし、そこを骨を折ってやってもらわなねば、心の芽のいきいきした子は決して育
  たない。教育というものは、ものの良さが本当にわかるようにするのが第一義ではなか
  ろうか。
      
       「春風夏雨」p16     角川ソフィア文庫 

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   文化は食物と同じで、同化してはじめてその人のものとなって働くことができる。そして同化とは、ひっきょうその人のメロディーがそれだけ密度を増すということにほかならない。密度が増せば喜びも強くなる。たとえば「しみじみした喜び」を感じることがある。これはメロディーがメロディー自身をよろこんでいるのだ といえよう。

       「春風夏雨」p21・22    角川ソフィア文庫 

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      空の名残惜しさ   第二十段

  なにがしとかやいひし世捨人の、「この世のほだし持たらぬ身に、ただ空のなごり
 のみぞ惜しき」と言ひしこそ、まことにさも覚えぬべけれ。


  誰それとか言った世捨人が、「この世につなぎとめられるものを何も持っていない身
 で、ただ空と別れることだけが名残惜しい」と言ったのこそ、本当にそうも思われるに
 違いない。

       徒然草・方丈記p71  大伴茫人編  ちくま文庫 

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  生命というのは、ひっきょうメロディーにほかならない。日本ふうにいえば
 
 ”しらべ”なのである。そう思って 車窓から外を見ていると、冬枯れの野の
 
 ところどころに大根やネギの濃い緑がいきいきとしている。本当にいきてい
 
 るものとは、この大根やネギをいうのではないだろうか。

     
       「春風夏雨」よりp14        角川ソフィア文庫        

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    不定の心得こそ間違いない 第百八十九段

  今日はその事をなさんと思えど、あらぬ急ぎまづ出で来てまぎれ暮らし、
 待つ人は障りありて、頼めね人は 来たり。頼みたる方の事は違いて、思い
 よらぬ道ばかりは叶ひぬ。煩はしかりつる事はことなくて、安かるべき事は
 いと心苦し。

  日々に過ぎ行くさま、かねて思ひつるには似ず。一年のうちもかくの如し。
 一生の間もまた、しかなり。

  かねてのあらまし皆違ひ行くかと思ふに、おのずから違はぬ事もあれば、
 いよいよ 物は定めがたし。不定と心得ぬるのみ、まことにて違はず。


  今日はこれこれの事をしようと思っていても、予想外の急用がひょっと出て
 来て、それに取り紛れて過ぎてしまい、待っている人は支障があって来ず、
 約束していない人はやって来る。あてにしていたほうの事はうまくいかず、
 思っても いなかった方面のことだけは実現する。心配していた事は何事もなく、
 何でもないはずの事はひどく心を悩ませる。

  日々に過ぎて行く様相というのは、あらかじめ思っていたとおりにはいかない。
 一年のうちでもこのようなものである。一生の間もまた、そうしたものだ。 

  それでは、前もって予想していたことはすべて違ってしまうのかと思うと、たま
 たま 違わない事もあるので、ますます物事というのは定めがたい。すべての
 物事の様相というのは、不定であると心得ることだけが、真実であって間違いない。

      徒然草・方丈記p256-257      大伴茫人編 ちくま文庫

 

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    貧富の条件   百二十三段

  無益の事をなして 時を移すを、愚かなる人とも、僻事する人ともいうべし。国のため、
 君のため、止むことを得ずしてなすべき事多し。そのあまりの暇いくばくならず。

  思ふべし、人の身に止むことを得ずして営むところ、第一に食ふ物、第二に着るもの、
 第三に居る所なり。人間の大事、この三つには過ぎず。餓えず、寒からず、風雨に冒さ
 れずして、閑かに過ぐすを愉しびとす。

  ただし、人みな病あり。病に冒されぬれば、その愁へ忍び難し。医療を忘るべからず。
 薬を加えて四つの事、求め得ざるを貧しとす。この四つ欠けざるを富めりとす。
 この四つの外を求め営むを奢りとす。四つの事倹約ならば、誰の人か足らずとせん。

  
  無益なことをして時を過ごすのを、愚かな人とも、間違った事をする人とも言わなければ
 ならない。それでなくとも、国のためや主君のために、やむをえずしなければならない事が
 多い。その残りの時間はどれほどでもない。

  よく考えてみるがよい、人の身でやむをえず用意するものは、第一に食べる物、第二に
 着る物、第三に住む所である。人として生きるうえで大事なことは、この三つにすぎない。
 餓えず、寒くなく、風雨に冒されないで、心穏やかに暮らすのを樂しみとするのだ。

  ただし、人はみな病気がある。病に冒されれば、その苦しみは耐え難い。医療を忘れては
 ならない。薬を加えて四つの事を得られないのを貧しいという。この四つが欠けていないの
 を富んでいるという。この四つのほかの事を求め蓄えようとするのを贅沢という。そして、四つ
 の事に倹約であれば、どんな人が生きるのに不足を感じることがあるだろうか。
  
     「徒然草・方丈記」P189-191   大伴茫人編   ちくま文庫
 

    
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       取り付いて本体を損なう物  第九十七段


 その物に付きて、その物を費やし損なふ物、数を知らずあり。

 身に虱あり。家に鼠あり。国に賊あり。小人に財あり。君子に仁義あり。僧に法あり。


 ある物に取り付いて、その物の本体を疲れさせて滅ぼす物が、数え切れないほどある。
 
 身に虱がある。家に鼠がある。国に賊がある。小人に財産がある。君主に仁義がある。

 僧に仏法がある。


      徒然草・方丈記 p164   大伴茫人編 ちくま文庫


  

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