原則を忘れた初等・中等教育
ー何のため、そして誰のために急ぐのかー
たまたま私の手元に大正二年発行の小学校五年の読本がある。
さらに一昔前、三-四年の国語が週十四年間あった時代のもの
であるが、これを見れば昔の小学校五年の国語の実力のおおよ
その程度がわかる。
以下その一部を引用する。
我が國至るところ名勝の地にとぼしからざれども、よく人工の美
と自然の美とを併せたるは日光に如くはなし。
されば一年中遊覧者跡を絶たず、夏の盛りの頃、秋の紅葉の
折には来り遊ぶもの最も多し。
外國人の我が國に来る者亦必ずここに遊びて、日光結構を賞
せざるものなし。
春の雨はしめやかに降って、のきの玉水の音も靜に聞こえる。
春の初に降るのは一雨毎に花をもよほすかとうれしい。
「紅白花開く煙雨に中」という景色は、靜かな中にも美しいながめ
である。併し此の雨はやがて花を散す雨となるので、其の時はうら
めしい心地がする。
雨のはれた朝、花の香を送って、そよそよと吹く春風には、我が身
も蝶の様に旅立ちたくなる。
現在の初等教育では、こういう全教科を統制する大局的な基本方針
が 欠けているらしく、いろいろな教科が原則を無視して競って早くから
多くの事柄を教えようとしている。
現在小学校では一年から社会を教えているが、仮に昔のように五年
になって国語の実力が十分ついてから社会を教えることにしたとすれ
ば、一年から教えるよりずっと能率よく短い時間で密度も濃い内容を
教えることができる。
現在の一年の社会の内容を教えるには二週間もあれば十分であろう。
理科についても事情は同様です。
このように適齢に達してから教えれば能率よく教えられる内容をなぜ
急いで苦労して一年から教えなければならないのか理解に苦しむ。
小平邦彦「怠け数学者の記」P91-93 岩波現代文庫刊