KATZのFLEURCAFE

KATZのフルールカフェへようこそ!!フルールカフェではKATZが収集した本・CD・DVDなどを中心に気ままに展示し,皆さまのお越しをお待ちしております。ご自由にお愉しみくださいませ。よろしくお願い申し上げます。ほぼ毎日更新中でございます。

カテゴリ: 小平邦彦

DSCF1548
  原則を忘れた初等・中等教育
   ー何のため、そして誰のために急ぐのかー 

 たまたま私の手元に大正二年発行の小学校五年の読本がある。
 さらに一昔前、三-四年の国語が週十四年間あった時代のもの
 であるが、これを見れば昔の小学校五年の国語の実力のおおよ
 その程度がわかる。
 以下その一部を引用する。

 我が國至るところ名勝の地にとぼしからざれども、よく人工の美
 と自然の美とを併せたるは日光に如くはなし。
 されば一年中遊覧者跡を絶たず、夏の盛りの頃、秋の紅葉の
 折には来り遊ぶもの最も多し。
 外國人の我が國に来る者亦必ずここに遊びて、日光結構を賞
 せざるものなし。


 春の雨はしめやかに降って、のきの玉水の音も靜に聞こえる。
 春の初に降るのは一雨毎に花をもよほすかとうれしい。
 「紅白花開く煙雨に中」という景色は、靜かな中にも美しいながめ
 である。併し此の雨はやがて花を散す雨となるので、其の時はうら
 めしい心地がする。
 雨のはれた朝、花の香を送って、そよそよと吹く春風には、我が身
 も蝶の様に旅立ちたくなる。 


 現在の初等教育では、こういう全教科を統制する大局的な基本方針
 が 欠けているらしく、いろいろな教科が原則を無視して競って早くから
 多くの事柄を教えようとしている。
 現在小学校では一年から社会を教えているが、仮に昔のように五年
 になって国語の実力が十分ついてから社会を教えることにしたとすれ
 ば、一年から教えるよりずっと能率よく短い時間で密度も濃い内容を
 教えることができる。
 現在の一年の社会の内容を教えるには二週間もあれば十分であろう。
 理科についても事情は同様です。

 このように適齢に達してから教えれば能率よく教えられる内容をなぜ
 急いで苦労して一年から教えなければならないのか理解に苦しむ。


  小平邦彦「怠け数学者の記」P91-93 岩波現代文庫刊 

DSCF1548
    原則を忘れた初等・中等教育

 最近七ー八年間における大学生の学力の低下には目を覆いたくなる
 ものがある。
 ここで学力というのは知識の量ではなく、自分でものを考える力を意味する。
 つまり知恵である。
 資源に乏しい日本の経済は日本人の科学・技術における想像力に掛かって
 いるのであるから、このまま学力の低下が続いたのでは日本の将来は危うい
 のではないか、と思う。

 なぜこんなに学力が低下してきたのだろうか。
 近頃の子供は小学生のときから塾に通ったりして実によく勉強する。
 それにもかかわらず学力が低下してきた原因の一つは、初等・中等教育におい
 て、原則を忘れて、あまりにも多くの事柄をあまりにも早くから答えようとするた
 めに、生徒が教えられることを暗記するのに忙しく、自分でものを考える余裕を
 失っていることにあると思う。

 原則というと何かと難しい教育の原理のように聞こえるかも知れないが、私が
 原則というのは極めて常識的な当り前なことであって、要するにものを教える
 順序があり、また教えるのに適当な年齢があるということである。


   小平邦彦「怠け数学者の記」 P83 岩波現代文庫刊

DSCF1548
  一数学者の妄想

 数学者は、たとえば物理学者が物理現象を研究しているのと、同じ意味で、

 数学的現象を研究しているのである。

 数学を理解するということは、その数学的現象を「見る」ことである。

 「見る」というのは勿論目で見るのとは異なるが、ある種の感覚によって知覚

 することである。

 私はかつてこの感覚を「数覚」と名付けたことがある。

 数覚は、一寸説明し難いけれど、論理的推理力とは異なる純粋な感覚であって、

 数覚の鋭さは、たとえば聴覚の鋭さ等と同様に、いわゆる頭の良し悪しとは関係

 ない。

 一般に数学は緻密な論理によって構成された論理的な学問であると思われてい

 るが、私は数学は高度に感覚的な学問であると思う。

 数学を理解するには数覚によってその数学的現象を感覚的に把握しなければな

 らないのであって、論理だけではどうにもならないとである。

 数覚に欠けている人に数学が分からないということは、数学が出来ない子供の家

 庭をしてみればすぐに分かる。

 こちらには目の前に見えている現象が子供にはどうしても見えないので説明には

 苦しむのである。


   小平邦彦「怠け数学者の記」P24 岩波現代文庫刊
  

このページのトップヘ