KATZのFLEURCAFE

KATZのフルールカフェへようこそ!!フルールカフェではKATZが収集した本・CD・DVDなどを中心に気ままに展示し,皆さまのお越しをお待ちしております。ご自由にお愉しみくださいませ。よろしくお願い申し上げます。ほぼ毎日更新中でございます。

2016年09月

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 数学の世界でも、リーマンのように、自分が何を理想としているかをよく見きわめようと
 し、またそれが可能であることを示すために論文を書いた学者が出た。

 数学史を学ぶ者はリーマンのエスプリを学んでほしい。

 ガリレオ時代のエスプリ、つまり理性は観念論を破る手段だったが、こんどのエスプリ、
 つまり理想は悠久なものを望むエスプリである。

 ニュートンのことばからもうかがえるように、謙虚になったから理想が見えてきたといえる。


 理性と理想の差違は、理想の中では住めるが、理性の中には住めないということにある。


  岡潔「春宵十話」P40 2014年 角川ソフィア文庫刊 

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 道義の根本は人の悲しみがわかるということにある。

 自他の別は数え年で五歳くらいからわかり始めるが、人の感情、特に悲しみの感情は
 一番わかりにくい。

 だから小学校へ入るころまでは、人が喜ぶからこうしなさいとは教えられるが、人が
 悲しむからこうしてはいけないという教え方はできない。

 本当はこの教え方の方が徹底的なのだけれども。

 人が悲しんでいるから自分も悲しいという程度にまでわかるのには、少なくとも二十歳
 の声を聞かねばならないのではないか。


  岡潔「春宵十話」P80 2004年 角川ソフィア文庫刊 

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 自然をふつうに見ますと単に自然が見えるだけです。

 しかし、仔細に見ますといちいちいかにもふしぎなのです。

 
 たとえば、かぼちゃの種です。

 あの種にはどういう力が秘められているかというと、それを土にまきますとその時期 が来れ
 ば芽が出る。
 
 そして、ふしぎな生長の仕方で大きくなり、秋には実がなってそれがみのってし
 まうと枯れます。

 
 あの小さな一粒の種は、やく半年後の変化までその中に秘めているのです。

 このようなものを人はつくることもできなければ、説明することもできません。


 わたしたちは、このつくれそうもないことわかりそうもないことに目をふさいでいるがゆえに、
 すべて知っているように思いますが、仔細に見ると自然はこのようにふしぎにみちているの
 です。


 このふしぎまで見ることができる人が自然を見ますと、単に自然を見ているだけなく自然あら
 しめているものも同時に見ているのだといえます。


 この自然と自然あらしめているものとを合わせて大自然というのです。

 大は、大きいではなく、絶対という意味の形容詞なのです。


  岡潔「風蘭」 P28・29  1964年講談社新書刊

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 「心的内容の次第に明瞭に現はるるは注意にて。」 

   注意とは意を注ぐと読むので、対象に関心を集め続けることをいうのである。

   実際、数学でわからない対象にじっと関心を持ち続けていると、だんだんわかってくるから

   不思議である。

    数学のときは無形の像だから目には見えないが、ちょうど霧に隠れていた山が、霧が薄れ

      てゆくと共にあっちが少し現われ、こっちが少し現れして、ついに全山容が見えてくるような

       感じである。



   岡潔「月影」P153 講談社新書刊

  

  

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 数学上の発見には、それがそうであることの証拠のように、必ず鋭い喜びが伴うものである。

 この喜びがどんなものかを問われれば、チョウを採集しようと思って出かけ、みごとなやつが

 木にとまっているのを見たときの気持だと答えたい。

 
 実はこの”発見の鋭い喜び”ということばも、昆虫採集について書かれた寺田寅彦先生の文章

 から借りたものなのである。


  岡潔「春宵十話」P33 2014年角川ソフィア文庫刊 


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   情緒と創造

 わたしがふらっと立ち上がります。

 -ホラ、立ち上がったでしょう。

 これはわたしが立とうと思ったのです。

 そんなふうな気分で立とうと思ったのです。

 これは一つの情緒です。

 立とうと思うと、四百いくつかの筋肉が、同時に統一的に動いて、じっさい立ち上がるという

 動作を実現します。

 
 ところで、その動作自身ですが、これは、はじめ立ち上がろうとしたときの気分を、寸分たがわ

 ず四次元的に物質(肉体)によって表現したものです。


 つぎに、そのはじめの立ち上がろうという気分ですが、これは一つの情緒(意志的情緒)です。

 だから、情緒がただちに物質によって四次元的に表現されたことになるのです。



  岡潔「風蘭」P30・31 1964年講談社新書刊

 


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 寺田寅彦先生はこういう意味のことをいっている。

 「大学を出て、いわゆるオリジナルリサーチ(未知に対する研究)をするようになると、
 一日一日が生き甲斐のあるように思われて、それまで病弱だったからだが、自然に
 達者になった。

 その代わり生み出す、作り出すという働きを、たとえそれがある文章で一字二字を置き
 変えるというごく些細なものであってもよいのだが、少しもしなかった日は、まるで一日が
 空費されたように思われた」。

 ある文章で一字二字を置き変える というごく些細なものであっても、それが本当に創造
 であれば、全身に喜びを感じるのである。

 ちょうど一輪二輪の梅花であっても、それが本当に木から咲き出たものであれば、その上
 に満天下の春を感じるが、造花はどんなにたくさんであっても紙くずにすぎないのと同じで
 ある。

 先生は「日々生き甲斐を感じた」といっておられるが、これは発見の鋭い悦びとは別種類の
 心の喜びであって、私はこれを「生命の充実感」といってきた。

 ひとがほめても悪くいっても少しも気にならないのは、この心の喜びが内に満ちているため
 である。 


    岡潔「月影」P34 1966年 講談社新書刊 

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  数学への踏み切り

 全くわからないという状態が続いたこと、そのあとに眠ってばかりいるような一種の
 放心状態があったこと、これが発見にとって大切なことだったに違いない。

 種子を土にまけば、生えるまでに時間が必要であるように、また結晶作用にも
 一定の条件で放置することが必要であるように、成熟の準備ができてからかなりの
 間をおかなければ立派に成熟することはできないのだと思う。

 だからもうやり方がなくなったからといってやめてはいけないので、意識の下層に
 かくれたものが徐々に成熟して表層にあらわれるのを待たなければならない。

 そして表層に出てきた時はもう自然に問題は解決している。


   岡潔「春宵十話」P32 2014年角川ソフィア文庫刊


 

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