KATZのFLEURCAFE

KATZのフルールカフェへようこそ!!フルールカフェではKATZが収集した本・CD・DVDなどを中心に気ままに展示し,皆さまのお越しをお待ちしております。ご自由にお愉しみくださいませ。よろしくお願い申し上げます。ほぼ毎日更新中でございます。

2016年04月

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  うぐひすや竹の子藪に老を鳴  すみだはら(別座舗・枯尾花)

  寒からぬ露や牡丹の花の密   別座舗

  嵐山藪の茂りや風の筋     嵯峨日記 

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 幼稚園の子どもの中に、まれには花の美しさのわかる子がいるのです。

 その子にだけなぜわかるかというと、その子はほかの子供よりも花に

 注意を集めることができる。

 心を花のところに集めることができる。

 そこだけがちがっているのです。 『風蘭』 


  岡潔「情緒と日本人」P142・143 2008年PHP研究所刊

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 私の友人の秋月(康夫)君が、ある若い数学者に「君のクラスにはよく出来る

 人が多いが、なぜだろう」と聞くと、その男は「それは先生がいなかったからで

 す」答えたということです。 『紫の火花』  


  岡潔「情緒と日本人」P174 2008年PHP研究所刊 

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 情緒を形に表現することは大自然がしてくれるのであるから、
 大自然に任せておいて、人は自分の分につとめるべきである。

 情緒を清く、豊かに、深くしてゆくのが人の本分であろう。

 これが人類の向上ではなかろうか。 『紫の火花』


  岡潔「情緒と日本人」P59 2008年PHP研究所刊

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 ソクラテスは自分は何も知らないってことを知るのみと言った。
 あれだけの「問答」の結果がそうだった。

 デカルトは読むべき本は全部読んだ。
 十七世紀は読むべき本はたくさんはなかったが、今だって実はないんです。

 クラシック(古典)だけ読めば全部読んだことになるんです。
 全部読んだけれども「自分がそれに加えるものは何ひとつなかった」。 


  山本夏彦 「『室内』40年」P159 1997年文藝春秋刊

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  映画時代2

  ウェルズの小説に「時の器械(タイムマシーン)」というのがある。
 この精妙な器械によってわれわれは自由に過去にも未来にも飛んで行くことが
 できるというのである。
 想うに絵巻物と、その後裔であるところの活動映画も云わばやはり一種の「時の
 器械」である。
 時の歩みを順にも逆にも速くも遅くも勝手に支配することが出来る。

 もっとも物理的機構に頼る活動映画では、物質的実在世界の未来は写されない
 し、フィルムに固定されなかった過去は永久に映出し得られない。

 しかし心の世界の過去と未来は色々な絵巻物の紙面に自由に展開されているか
 ら面白い。
 「世界の一億年」と名づける映画はまだ見ないが、成功不成功は別問題として、製
 作者の意図はやはりこの「時の器械」を狙ったものであろう。
                           (昭和五年九月) 


   「寺田寅彦」 P92 2009年 ちくま日本文学

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  映画時代

 我等の先祖にも、少くも芸術の上では、恐ろしく頭のいい独創的天才が居た。
 光琳歌麿写楽のごとき、また芭蕉西鶴蕪村のごときがそうである。
 彼等を昭和年代の今日に地下より喚び返してそれぞれ無声映画ならびに
 発声映画の脚色監督の任に当たらしめたらばどうであろう。
 
 恐らく彼等はアメリカ式もドイツ風も完全に消化した上で、新しい純粋国民
 映画を作り上げるであろう。
 光琳や芭蕉は少数向きの芸術映画、歌麿や西鶴は大衆向きのエロチシズム、
 写楽や京伝は社会的な風刺画とでもいった役割ででもあろうか。
 また広重をして新東京百景や隅田川新鉄橋めぐりを作らせるのも妙であろうし、
 北斎をして日本アルプス風景や現代世相のページェントを映出させるのも面白
 いであろう。
 そうしてこれらの新日本映画が逆にちょうど江戸時代の浮世絵のごとく、欧米に
 輸出される。
 こういう夢を見ることは大した愛国者でなくても余り不愉快なことではあるまい。
                                                                              ( 昭和五年九月)


   「寺田寅彦」P90 2009年ちくま日本文学034 

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 私は三度程完全に行き詰まりました。
 だから三度大きな意味で数学上の発見やったわけですが、みんな七年くらい
 かかっています。
 行き詰った間は、意志と情熱ですよ。
 情熱が持続しなけりゃだめなんですね。
 知の方は、これは当然いるんだから、いるって言わなくったって使いますよね。
 使おうにも使えなくなるから困るんです・・・・・・

 本当に行き詰まるためには、そっちをいったん指したら微動もしない意志がい
 るんで、今の人たちにはそれだけの意志力もっている人がどれだけいるかと思う。
 それだと、行き詰まりということはありえないわけなんだ。
 直進しようとするから行き詰まるんで、行きやすい所を選って行ったら、行き詰まる
 ということはありえない。
 それだったら数学上の発見という言葉はむなしき言葉です。
                         (「数学の歴史を語る」)


  高瀬正仁「岡潔 数学の詩人」P45・46 2008年岩波新書刊 

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 何か数学上の発見というふうなことを言うためには、一度行き詰まらなけ
 ればなりません。
 どれくらい行き詰まってるかといったら、たいてい六、七年は行き詰まる。
 それは自由な精神が勝手に行き詰まっているんであって、そこに行き詰ま
 ってるべく強いられてるんじゃありません。
 だからこそ六、七年行き詰まってられる。

 その時は行き詰まりを感じるも何もない。
 全然やることがない。
 やりたいことは決まってるんだけど、そっち向きには何もやることがない。
 だからやるのは情意がやってるんであって、知は働きようがない。
                   (数学の歴史を語る) 

  高瀬正仁「岡潔 数学の詩人」P44  2008年岩波新書刊
 

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  和気に似たもの

 文部省の役人は日本人は日本語のなかで生まれ育ったから、国語は教えなく
 ても自然におぼえると思っているが、最も学ばなくてはならないのは国語で、
 「駅の前の英会話」どころではないのである。

 言葉がすべてだと私が言っても信じないなら、シオランという思想家が言っている。
 (出口裕弘訳) 

 ー 私たちは、ある国に住むのではない。

   ある国語に住むのだ。

   祖国とは国語だ。

   それ以外の何ものでもない。


  山本夏彦「『室内』40年」P10  1997年文藝春秋社刊
 

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  天災は忘れた頃来る

 今日は二百二十日だが、九月一日の関東大震災記念日や、二百十日から、
 この日にかけては、寅彦先生の名言「天災は忘れた頃来る」という言葉が、
 いくつかの新聞に必ず引用されることになっている。

 実はこの言葉は、先生の書かれたものの中にはないのである。
 しかし話の間には、しばしば出た言葉で、かつ先生の代表的な随筆の一つ
 とされている「天災と国防」の中には、これと全く同じことが、少しちがった表
 現 で出ている。


  樋口敬二編「中谷宇吉郎随想集」P2701988年岩波文庫刊 

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 いい忘れたが、わたくしは小学校入学一年前に、数字では漢字の九という
 字一字しか知らなかったのに、一晩隣に寝た中学生の開立の九九を子守
 り歌のように聞いただけで、その九九を覚えてしまって今に忘れない。
 このころのこの素晴らしい記憶力を「寺子屋教育」 の時のように利用して、
 もう少し教育に「勢い」を付けてはどうだろう。


  岡潔「春の雲」 P128 1967年講談社現代新書刊

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