KATZのFLEURCAFE

KATZのフルールカフェへようこそ!!フルールカフェではKATZが収集した本・CD・DVDなどを中心に気ままに展示し,皆さまのお越しをお待ちしております。ご自由にお愉しみくださいませ。よろしくお願い申し上げます。ほぼ毎日更新中でございます。

2016年03月

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  カルカソンヌの城

 五年前、スペインからフランスへもどって来て、ガスコーニュの村のホテル
 へ向かう途中、私は自動車の窓から、カルカソンヌの城を遠望し、その古
 城 の筆舌につくしがたい美しい姿に、
 「もっと、ゆっくりと走っておくれ」
 といい、見惚れたことがある。

 カルカソンヌの城へ行ってみたいというおもいが、五年後のいま、達せられ
 ようとは考えなかった。
 何か一つ、見残しておくと、そのおもいが自然に影響して、いつか、のぞみが
 適うのかも知れない。

 カルカソンヌといえば、画家ルノアールの長男ピエールが、第一次大戦 で重症
 (右腕を砕かれた)を負って、カルカソンヌの病院へ収容されたときも、母のアリ
 ーヌはカーニュから重病の身を運んで、見舞ったのだ。
 ピエールが恢復期に入っていたので、安心してカーニュ へもどって間もなく、今
 度は次男のジャンが重傷を負い、またも彼女は見舞いに駆けつけることになる。


  池波正太郎「ルノアールの家」P172 1985年朝日新聞社刊 

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 私がカーニュへ来たのは、画家オーギュスト・ルノアールが七十八歳
 の生涯を終えた家とアトリエを見るためだった。

 この画家への親しみは一口にあらわせないが、加えて、彼の長男ピエ
 ールの名優ぶりを映画で知っているばかりでなく、次男のジャン・ルノア
 ール監督が作った映画の数々は、少年時代から今日に至るまでの私に、
 少なからぬ影響をあたえているのだ。
 私の[フランス]は、こうした人々によって、頭のなかに成りたっている。

 そのアトリエは、いったん街へ降りてから、この土地で[レ・コレット]とよば
 れている別の丘の上にあった。
  

  池波正太郎 「ルノアールの家」P141・2  1985年朝日新聞社刊

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 レ・アールの一隅に[イノサンの広場]とよばれる小さな広場があり、その名に、
 私が見知っていたセトル・ジャンの酒場[B・O・F] があった。

 このあたりにへは二度と足を向けまいとおもっていた私だが、今日、あらため
 てやって来たのは、かつてのジャン老人の店のガラス扉越しに見えた広場の
 塔のようなものが、むかしは[イノサンの泉]とよばれていて、有名な画家のル
 ノアールが少年時代に磁器の絵付けをしてはたらいていたころ、たまたま通り
 かかり、われを忘れるほどに見惚れてしまい、それから毎日のように見に出か
 け たことを知ったからだった。

 この塔は、五段の敷石を積み上げた上に高さ七、八メートルの四角な石の囲い
 をして、中に泉の台がある。
 ルノアールが見惚れたのは石の囲いに彫りつけられた水の精の美しさだった。

 これは十六世紀の彫刻家ジャン・グージョン制作の浅浮き彫りだそうな。
 なるほどそういわれて見ると、まさに美しい。


   池波正太郎「ルノアールの家」P99・100 1985年朝日新聞社刊

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 対話による解説

  日本のこころ

 武田泰淳 ぼくはどうも仏教と自然科学と一致しているような気が
 するんですが、、、、、、。

 岡潔 いいえ、一致じゃありません。
    全然大きさが違います。
    あのね、無差別智の大海に自然が浮いていること、なお大海に
    一かぶのあわが浮いているようなものだという意味のことを
    釈尊はいわれたでしょう。

 武田泰淳 ええ。

 岡潔 だから、一致するもなにも、一方はちっぽけなことを一生懸命やるし
    、、、、、、。
    数学は、超自然界のことをやってるんであって、自然に閉じこもって
    るんじゃ全然ありません。
    そら、シアンステマティックといってもやはり科学はしていますけれど
    ね、しかし、数学という超自然科学だって実に底の浅いものだと思います。
    今度人に生まれてきたとき、数学をやるつもりは全然ありません。
    実に底が浅い。


   岡潔 「日本のこころ」P393 1967年講談社刊

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  山路来て何やらゆかしすみれ草  野ざらし紀行

  ほろほろと山吹散るか滝の音    笈の小文

  煩えば餅をも喰わず桃の花     夜話ぐるい


   「芭蕉全句集」 角川ソフィア文庫刊 

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     木について

 木の寿命

 法隆寺の建物は、ほとんどヒノキ材で、主要なところは、すべて樹齢一千年
 以上のヒノキが使われています。
 そのヒノキが、もう千三百年も生きてもビクともしません。
 建物の柱など、表面は長い間の風化によって灰色になり、いくら腐蝕したよ
 うに見えますが、その表面をカンナでニ~三ミリも削ってみると、驚くではあり
 ませんか、まだヒノキ特有の芳香がただよってきます。
 そうして薄く剥いだヒノキの肌色は、吉野のヒノキに似て赤みをおびた褐色です。
 千三百年前に第二の行き場所を得た法隆寺のヒノキは、人間なら壮年の働き
 盛りの姿で生きているのです。

   西岡常一・小原二郎「法隆寺を支えた木」P53・54 NHKブックス 

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