KATZのFLEURCAFE

KATZのフルールカフェへようこそ!!フルールカフェではKATZが収集した本・CD・DVDなどを中心に気ままに展示し,皆さまのお越しをお待ちしております。ご自由にお愉しみくださいませ。よろしくお願い申し上げます。ほぼ毎日更新中でございます。

2015年09月

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    秋をへて蝶もなめるや菊の露    笈日記

  初茸やまだ日数えぬ秋の露     芭蕉庵小文庫

  たうとさに皆をしあひぬ御遷宮    花摘


     「芭蕉全句集」 角川ソフィア文庫刊
  

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   昭和十二年(1937年) 小津 三十四歳

  中国行

  一、出発前夜 昭和十二年九月秋彼岸の頃一寸戦争に行ってきます

                                小津安二郎


    都築政昭「小津安二郎日記」P103 1993年講談社刊

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   キリストの体

 大聖堂の床は十字架の形になっています。
 十字架ということは、つまり人間の形でもあります。
 教会はイエスを中心にしたひとつの神秘体だとする考え方に形を与えているのです。
 イエスの頭に当たる部分を内陣といいまして、ここは主祭壇、それから脇祭壇があり
 ます。

 シャルトルの場合は一つの主祭壇と五つの脇祭壇があります。
 つまりミサを五ヶ所でであげられるのです。
 信者はこの内陣に向かって礼拝の形をとりますから、その方向線は遠く十字架の地
 エルサレムに向かっているということになります。

 シャルトルの場合は正確に春分と秋分の太陽ののぼる方向だそうです。
 東がイエスの頭を示し、両手を示す部分が南口と北口に当たるわけです。
 足に当たる部分が西口になります。

 当時人々は磁石を持たなかったでしょうから、聖堂が正確方向を指し示すことには意
   味がありました。
 日の当たりぐあいで日時計の役割も果たしたでしょう。
 それに鐘楼から祈りの時を告げる鐘が響いて、これも時の感覚を民衆に習慣づけた
  でしょう。ボース平原の場合には、多くの民衆は牧者、農民です。
 あるいはそれと関連した仕事をしています。
 彼らにも一日の時の刻みを知る必要があったし、季節を知る必要もありました。
 このように聖堂は暦に関する認識を与えるという実用性もあったのです。


   小川国夫「祈りの大聖堂シャルトル」P30 1986年講談社刊
  




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    正面に立ってー誰の像か

 正面入口は西です。
 幸いに、四代目のシャルトル大聖堂の一部がここに残っております。
 四代目は一〇ニ〇年から一〇三七年の十七年間にわたって造ら
 れた建物だといわれています。

 多くの聖堂の例にもれず、ここにも中央の欄間 には最後の審判の
 キリストが描かれておりますけれども、審判官キリストは、ロマネスク
 の教会にあるように恐ろしい姿をしておりません。
 威厳を具えながらも、柔和な感じがいたします。

 キリストの周りには四頭の不思議な動物が描かれていますが、これは
 四人の福音記者、マテオ、マルコ、ルカ、ヨハネを表しているのです。
 このことから、シャルトルの大聖堂は本来新約聖書を主体として統一
 しようとしたものだと評している人もいます。 


     小川国夫 「祈りの大聖堂シャルトル」P20 1986年講談社刊

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  心あてに折らばや折らむ

 なにしろ私は戦中世代なので、少年時の思い出のなかの菊の花といえば、

 すぐに目に浮かぶのが十一月三日、明治節の式典である。

 小学校でも中学校でも、その日は式場に懸崖づくりの菊の花がたわわに

 飾られていたようにおぼえている。

 すでに朝などは冷え冷えする季節で、小学校の校庭に整列してたっていると、

 半ズボンからむき出しになった太股が肌寒かった。

  
   秋の空澄み 菊の香たかき

   今日の佳き日を みな寿ぎて


 「アジアの東 日出づるところ」ではじまる明治節の歌を記憶しているひとも、

 いまではすっかり少数派になってしまったのではないだろうか。


  澁澤龍彦「フローラ逍遥」P199・200 1996年平凡社ライブラリー刊

 

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    北口に立ってー聖母戴冠

 シャルトル教会は<ノートル・ダム・ド・シャルトル>ですから、われらの聖母教会

 ということになります。

 その主題をもっともはっきり打ち出しているのが北口です。

 ここにはキリストによる聖母戴冠の主題が描かれています。

 しかもその古い形ではないかと 思います。

 なぜかといいますと、北口もまた相当に古いものでして、一ニ〇五年から三〇年の

 間にできたと言われていますから、さっそくに、当時はまだ新しい聖母戴冠のイメ

 ージ をここに取り入れたのだと思います。


 聖母に対する信仰が中世も時を経るに従って深くなっていくわけですけれど、これは

 われわれが聖書を読んだ場合には不思議な気がいたします。

 なぜかといいますと、聖書の中には聖母マリアに関する記述は数行あるだけだから

 です。印象的な断片ですけれども、数行あるだけです。

 ですから、公認の聖書の考え方だけでは足りなくて、聖母に関する伝承が教会に

 よって受け入れられていったのです。


   小川国夫「祈りの大聖堂シャルトル」 P34 1986年講談社刊
   菅井日人写真 

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     横たわるモデル       1919年 イェール大学アート・ギャラリー


 私の最終的な線描デッサンは、いつも固有の光の領域を含んでいる。

 そして画面を構成している事物はみな異なる面に置かれている。

 遠近法は、感覚あるいは暗示の遠近法となっている。

  D.フルカド編「アンリ・マチス 文章と談話」(1972年)より


   「マチス」1991年日経ポケット・ライブラリー刊

 

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  原則を忘れた初等・中等教育
   ー何のため、そして誰のために急ぐのかー 

 たまたま私の手元に大正二年発行の小学校五年の読本がある。
 さらに一昔前、三-四年の国語が週十四年間あった時代のもの
 であるが、これを見れば昔の小学校五年の国語の実力のおおよ
 その程度がわかる。
 以下その一部を引用する。

 我が國至るところ名勝の地にとぼしからざれども、よく人工の美
 と自然の美とを併せたるは日光に如くはなし。
 されば一年中遊覧者跡を絶たず、夏の盛りの頃、秋の紅葉の
 折には来り遊ぶもの最も多し。
 外國人の我が國に来る者亦必ずここに遊びて、日光結構を賞
 せざるものなし。


 春の雨はしめやかに降って、のきの玉水の音も靜に聞こえる。
 春の初に降るのは一雨毎に花をもよほすかとうれしい。
 「紅白花開く煙雨に中」という景色は、靜かな中にも美しいながめ
 である。併し此の雨はやがて花を散す雨となるので、其の時はうら
 めしい心地がする。
 雨のはれた朝、花の香を送って、そよそよと吹く春風には、我が身
 も蝶の様に旅立ちたくなる。 


 現在の初等教育では、こういう全教科を統制する大局的な基本方針
 が 欠けているらしく、いろいろな教科が原則を無視して競って早くから
 多くの事柄を教えようとしている。
 現在小学校では一年から社会を教えているが、仮に昔のように五年
 になって国語の実力が十分ついてから社会を教えることにしたとすれ
 ば、一年から教えるよりずっと能率よく短い時間で密度も濃い内容を
 教えることができる。
 現在の一年の社会の内容を教えるには二週間もあれば十分であろう。
 理科についても事情は同様です。

 このように適齢に達してから教えれば能率よく教えられる内容をなぜ
 急いで苦労して一年から教えなければならないのか理解に苦しむ。


  小平邦彦「怠け数学者の記」P91-93 岩波現代文庫刊 

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    原則を忘れた初等・中等教育

 最近七ー八年間における大学生の学力の低下には目を覆いたくなる
 ものがある。
 ここで学力というのは知識の量ではなく、自分でものを考える力を意味する。
 つまり知恵である。
 資源に乏しい日本の経済は日本人の科学・技術における想像力に掛かって
 いるのであるから、このまま学力の低下が続いたのでは日本の将来は危うい
 のではないか、と思う。

 なぜこんなに学力が低下してきたのだろうか。
 近頃の子供は小学生のときから塾に通ったりして実によく勉強する。
 それにもかかわらず学力が低下してきた原因の一つは、初等・中等教育におい
 て、原則を忘れて、あまりにも多くの事柄をあまりにも早くから答えようとするた
 めに、生徒が教えられることを暗記するのに忙しく、自分でものを考える余裕を
 失っていることにあると思う。

 原則というと何かと難しい教育の原理のように聞こえるかも知れないが、私が
 原則というのは極めて常識的な当り前なことであって、要するにものを教える
 順序があり、また教えるのに適当な年齢があるということである。


   小平邦彦「怠け数学者の記」 P83 岩波現代文庫刊

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   葛川 明王院

 現代人はとかく形式というものを軽蔑するが、精神は形の上にしか現われないし、

 私たちは何らかのものを通じてしか、自己を見出すことも、語ることもできない。

 そういう自明なことが、忘れられたから、宗教も芸術も堕落したのである。

 回峰行者の持物一つにも、こまかいきまりや作法があるのは、決してつまらない

 こと ではない。

 それらの多くは後につけ足されたにしろ、より厳格に、克明に、始祖の姿に似せる

 ことによって、その精神をまなぼうとしたのである。 


 彼らはたとえ群れをなしていても、その修業はあくまでも一人のものであり、自力の

 行であるから、作法などは教えず、見様見真似で体得して行くところも、伝統的な

 芸能に似ている。

 ふつう百日を期限とし、毎朝午前二時から、日に三十キロ踏破するが、千日回るに

 は十年かかり、十五回で大先達、三十回で大々先達となる。

 回峰とひと口にいうけれども、考えてみれば一生かかる大事業なのである。


  白州正子「新版 私の古寺巡礼」P62 1997年法蔵館刊 

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   シャルトルの青

 シャルトルのステンドグラスの主調は青です。

 独特な青でして、<シャルトルの青> と名付けられています。

 私はシャルトルの町でいまもステンドグラスを作っている職人、

 芸術家にに聞いてみたのですが、あの青の効果は、どうして

 出てくるのか、わからないと言っておりました。

 中世の職人たちは、秘法を持っていたのです。

 それは、必ずしも高度のものではないでしょうが、さまざまな

 混ぜ物があって、記録にも残っていないし、わからなくなって

 いるということです。

 
 それから幾代もの埃がいっぱい付いているのです。

 埃が石の縁から、あるいは窓に無数に走っている鉛縁のあたり

 からガラスを浸して、透明感を遮り、人工を超えた光の質を生むの

 です。凹凸のせいで起こる乱反射の光のきらめきにとなります。

 そういう、むしろ欠点とみられることもまたすばらしい効果となって

 いるのです。


  小川国夫「祈りの大聖堂シャルトル」P56 1986年講談社刊
  菅井日人写真 

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                       日時計を持つ天使

   シャルトル小史

  この地は、キリスト教以前の宗教、ドルイド教という、森の中に精霊がいると

  考える、自然信仰の霊地だったそうで、ここには大地とか森とかいう母性的な

  ものを慕う気持ちがすでにあったのです。

  そういう事情がのちのマリア信仰にかかわって行ったと思われます。


  ドルイド教の祠の上にキリスト教会が建てられました。

  十二使徒時代といいますから、すでに一世紀に建てられているのです。


   小川国夫「祈りの大聖堂シャルトル」 P8 1986年講談社刊

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  算数教育の要諦は、まだ知らない問題の答えという一点に精神を凝集して、

  答えが自分にわかるまでやめないことである。

  そうするといわば心の窓が二重(自明の別、時空の枠)に開くことになって、

  清涼な外気がはいる。

  これが大脳の発育に必要なことらしい。


   岡潔「春風夏雨」P194 平成26年角川ソフィア文庫刊 

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       大正文化を思わせる花

 どういうものか今日ではコスモスをあまり見かけなくなっている。

 それだけにセピア色の写真のように、いよいよノスタルジックな情緒を誘い出

 す花になっているともいえよう。

 しかし、まだ私なんぞが少年のころには、あの赤とんぼとともに、コスモスは初

 秋のさびしさを感じさせるもっとも代表的な景物であった。


 二百十日の台風がすぎて、からりと晴れた秋の一日、前夜の雨にしっとり濡れた

 コスモスが、地に倒れながらも可憐に花を咲かせている情景。

 そんな情景が私の目に浮かぶ。

 いつの秋だったか。さあ、それはおぼえていない。

 それでも、そんな情景を何度も見たような気がする。

 弱々しいけれども芯は強いので、地に倒れても平気で頭をもたげた花をつける。

 それがコスモスの特徴だ。


  澁澤龍彦「フローラ逍遥」P181  1996年平凡社ライブラリー刊
 

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   断章、折にふれて

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  枯れ草や草花の種を人は、靴底に踏みにじってかえりみないが、

  私はそこに意義と美とを見出す。


  それらを大事に取ってきて、飾り、かつ描く。

  そうしたもののなかに宝を見いだすのだ。


    長谷川潔「白昼に神を視る」P8・9 1991年 白水社刊 

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   桜の寺

 愛宕を越えると、もう一つ峠がある。

 ここを栗尾峠というが、頂上を回ると、目の下に、周山の村落が見渡される。

 保津川の上流で、山間にぽっかりあいた平野の中を、清らかな川がめぐって

 おり、「山国」の名にふさわしい地形である。

 保津川は、迂回しながら延々と西へ回り、末は嵐山へ流れて行くのだが、常

 照 皇寺は、ここからさらに奥まった山の麓に鎮まっている。


 この辺は紅葉も多い所で、秋にも春にも捨てがたい情趣がある。

 特に桜の頃、参道を登って行くと、杉並木の向うに、花の姿がちらほら見え、思

 わず胸がどきどきする。

 西行にも、宣長にも、そういう歌があったと記憶するが、これは日本人の誰でも

 が、桜に会う時の心のときめきであろう。


 山門を入った所が本堂で、ここに有名な「車返し」の名木がある。

 ひと重と八重の入り交じった品種で、後水尾天皇が、あまりの美しさに車を戻して

 ごらんになった所から、「車返し」 または「み車返し」とも呼ばれる。

 この春の雪で、花は遅いということだが、そのかわり庭前の、しだれ桜は満開であっ

 た。

 その隣にもう一本、昔京都の御所から移されたという「左近桜」があり、これも蕾は

 かたかったが、いずれも、樹齢数百年の大木、この三本の桜で、常照皇寺の庭は

 成り立っているのである。


  白州正子「かくれ里」P63 1971年新潮社刊 

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   懈怠の心 第九二弾

 ある人、弓射ることを習ふに、もろ矢をたばさみて的に向ふ。
 師の言はく、「初心の人、二つの矢を持つことなかれ。
 後の矢をたのみて、はじめの矢に等閑の心あり。
 毎度ただ得失なく、この一矢に定むべしと思へ」といふ。
 わずかに二つの矢、師の前にて一つをおろかにせんと思は
 んや。
 懈怠の心、みずから知らずといへども、師これを知る。
 この戒め、万事にわたるべし。

 道を学する人、夕には朝あらんことを思ひて、重ねてねんごろ
 に修せんことを期す。
 いはんや、一刹那のうちにおいて、懈怠の心あることを知らんや。
 なんぞ、ただ今の一念において直ちにすることの、甚だ難き。


 ある人が弓を射ることを習うのに、二本の矢を手に持って的に向かった。
 すると師匠が言うことは、「初心の人は、二つの矢を持ってはいけない。
 後の矢をあてにして、はじめの矢にいい加減な気持ちが起こる。
 射るたびにただ雑念を払って、この一つの矢に集中しなければならぬと
 思いなさい」というものだった。
 わずかに二つの矢しかないものを、師匠の前でその一つをいい加減に
 射ようと思うだろうか、それでも気が緩んでしまうのだ。
 怠け心というのは、自分では気がつかないといっても、師匠はこれを見
 抜いているのだ。
 この戒めは、すべての事に通じるはずである。

 道を学ぶ人は、夕には朝があることを思い、朝には夕があることを思って、
 そのときにまとめてしっかりと修める腹づもりになる。
 一日という時間の中でもそうなのだから、ましてや、一瞬間のうちにおいて、
 怠け心が起こることを自覚するはずがあろうか。
 なんと、事を思い立ったその時の一瞬において直ちになすべき事をすること
 が、甚だ難しいことか。

  「徒然草・方丈記」大伴茫人編P161~163 ちくま文庫刊
  

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  フランス日記(4)

 「何で、それほど、ルノアールにこだわるのですか?」 

 と、人に尋かれても、よくわからない。

 私は必要があって、ルノアールの次男ジャンのことを調べるうち、どうしても

 エソワの村を見ておきたくなったというより仕方がない。

 ルノアールの墓には、ジャンも長男のピエールも共に眠っている。

 妻のアリーヌの墓は、その後方にあり、別になっているのが、日本人の感覚と

 してはよくわからぬけれども、エソワはアリーヌの故郷だから、われわれにはわ

 からぬ理由があるのだろう。

 ルノアールの故郷はリモージュである。


 晩年のルノアールは冬になるとカーニュへ行き、夏はエソワですごした。

 「ジャン・ルノアール通り」とよばれる村道があるところをみると、ジャンもエソワ

 で暮らしたことがあるのだろう。

 ピエール(俳優)もジャン(映画監督)も世界的な芸術家となって、偉大な父の名を

 はずかしめなかった。

 やはり来てみてよかった。

 エソワは私の期待と想像を裏切らぬ村であった。

 カーニュのアトリエを見たときも感動したが、さらに質素なエソワの住居は、いかに

 もルノアールの人柄をあらわしているようだった。

 家を見れば、住む人の人柄はたちどころにわかってしまう。


  池波正太郎「ル・パスタン」 P175 1989年文藝春秋社

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  私の論文などいつもケアレス・ミステイクが多いのだが別に訂正もしていない。

  どうせわかる人にはわかり、わからない人にはわからないからです。


  不思議にケアレス・ミステイクが多いことと、本質的なミステイクがないこととは

  対応し合うものらしく、これに反して、ケアレス・ミステイクの全くない論文で

    も、一つでもミステイクがあれば、それは致命的なものであって、全体が思い違

    いだといえる場合が実際にはある。


  ケアレス・ミステイクを指摘するのはそれを気にさえすればできることである。

  だが論理や、計算だけのお先まっくらな目では、起こったことを批判できるだけ

  であって、未知に向かって見ることはできないのであって、だからよくミステイク

  を(多くは致命的な)起こすのです。


   岡潔「日本の心」P306 1967年 講談社刊

   

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   情緒

 小さな子に花の美しさがよくわからないのは、頭の、美しさのわかる部分が

 まだよく発育していないためではなく、心をその花に注ぐ力が弱いからです。

 こころを花に集めることができさえすれば、大自然の真智はその心の上に

 働いて、その子にはその花の美しいことがよくわかるのです。


  岡潔「日本の心」 P196  1967年講談社刊

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 写実であろうとなかろうと、自然をいっぺん通してからすすまなければならない。

 ともかく自然の内部にいくらでも重要な、「要素」が 隠されているのであって、

 これをいかにつかむかが問題なのだ。


  長谷川潔「白昼に神を視る」 P11 1991年白水社刊

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   9月 鱸

 鱸は稚魚から老大(三尺余に達するものも珍しくない)するまで、セイゴ

 フッコと名が変る、つまり出世魚だが、何といっても旨いのは盛夏で、だか

 ら、洗いにして食べるにかぎるという人もいるし、

 「いや、塩焼きが何ともいえない」

 「吸い物もいい」

 このように、ファンが多い鱸は、高級魚といってもよい。


 秋になって、川から海へもどって来た[落ち鱸]を待ち、チリなべにするのを待ち

 こがれている人もいる。


  池波正太郎「包丁ごよみ」P68 1991年新潮社刊

  

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   季節は秋だった

 ローマの 詩人ホラティウス「諷刺詩集」第一巻第三章に、音楽家ティゲリウス

 はまぐれな男で、気がむけば饗宴の席で「卵から林檎まで」大声あげて歌を

 歌いまくるとある。

 ラテン語で書けばab ovousque ad mala である。

 前菜のは卵、デザートには林檎が欠くべからざるものだったので、「卵から林

 檎まで」は「初めから終わりまで」の意味で広く用いられていたらしい。

 林檎はラテン語でマルムといった。


  澁澤龍彦「フローラ逍遥」 P192・193 平凡社ライブラリー刊

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  人の臨終の有様について 第一四三段

 人の終焉の有様の、いみじかりし事など、人の語るを聞くに、ただ「しずかにし
 で乱れず」といはば、心にくかるべきを、愚かなる人は、怪しく異なる相を語り
 つけ、いひし言葉も振舞ひも、おのれが好む方にほめなすこそ、その人の日来
 の本意にもあらずやと覚ゆれ。
 この大事は、権化の人も定むべからず、博士の士もはかるべからず。
 おのれ違ふところなくば、人の見聞くにはよるべからず。


 人の臨終の有様が素晴らしかった事などを、人が語るのを聞くと、ただ「穏やか
 で取り乱さかった」と言えば、すぐれたものっと感じるはずなのに、愚かな人は、
 信じられない不思議な様相を付け加えて語り、いまわの際に遺した言葉も振舞
 いも、自分の好きなように解釈して褒めるけれども、それこそ亡くなった人の平
 素の志とは違ってもいるだろうと思われる。
 この臨終という大事は、権化の人であっても定めることができず、博士の士であ
 っても推察できるものではない、ましてやただ人などにわかるはずがないものだ。
 その当人さえ心乱れることがなければ、人が見聞きしてその死に様の良し悪しを
 決めるべきことではない。

    「徒然草・方丈記」大伴茫人編P220・221 ちくま文庫刊

 

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    引越ばなし

 昔の東京人には引越好きの人が多かった。

 斜めに貼った貸家札は町をあるけばいくらでも目についた時分、家賃

 三月分の敷金さえ納めればいつでも越せる御時世だったからでもあっ

 たが、やはり時々固まった生活のしこりを解きほごして新しい空気を通

 わすのに恰好な手段だった。


 それには貸家に限ることで、自分で建てた家となると動くにも気軽には

 行かない。

 葛飾北斎の引越好は有名な話だけれど、北斎ほどでないまでも、東京

 人で 庶民暮らしをして来たものは多少とも引越の経験を持たないことは

 ないであろう。

 私にしてからも幼いときから今日までの長い間ではあるけれども、居を移

 すこと三十回に手が届く。


 十代までは勿論自分の意志ではないけれど、私の母が相当な引越好で、

 他人の家を我が家のように手をかけて、人すぐれた綺麗好きだから拭き掃

 除も念入にして、はいった時と見違えるようになった時分には、そろそろ家

 に厭きてくる、典型的な江戸庶民型だった。

 それほどではないまでも、私にも知らず識らずそうなる傾向があるらしい。

                       (昭和二十九年11月)


  鏑木清方「明治の東京」P20・21  岩波文庫刊
  山田肇編 

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