2015年04月
D.W.Griffith「東への道」
Way Down East (1920) [HD] - Lillian Gish
最近買った本
D. W. Griffith「散り行く花」
Broken Blossoms (1919) - Lillian Gish
Max Ophüls 「Caught」
Caught 1949 - Max Ophüls
池波正太郎「ル・パスタン」2
フランス日記(六)
ナンシーは、十八世紀のころ、当時の領主だったスタニスラス大公がロココ
様式をもって、つくりあげた街である。また、アール・ヌーボーの発祥地といわ
れる。ホテルは大公の銅像があるスタニスラス広場の一角にあった。十八世
紀に建てられ た大邸宅をホテルにしたもので、白亜の典雅な建築だ。ロビイ
からの階段など、実に美しい。
早速、外へ出て、広場に近いお菓子屋で[ベルガモット] と称するボンボンを買
う。味は日本の鼈甲飴に似ている。この前にナンシーへ来たときも、同じ店で
[ベルガモット]を買った。
菓子屋の女主人は、「ムッシューを、おぼえています」と、いった。私も、この店へ
寄ったことがヒントになって[ドンレミイの雨]という短編を書くことができたのだっ
た。このホテルは美しい上に快適で、食堂もよかった。夜は雷雨になる。雷雨の
後のスタニスラス広場は何としても写真を撮らずにはいられなかった。この広場
や奥にある宮殿の建築は、フランスのみかイタリアからも画家や建築家が移って
来て、職人を指導したとおもわれる。
夕飯は、またしてもフォアグラの厚切りと牛肉の塩焼きにする。Yが、
「痛風、大丈夫でしょうか?」
と、心配してくれた。
明日は、ストラスブールへ行くつもりだが、
「もう一日、此処でのんびりしよう。洗濯もあるしね」
「ぼくは、ストラスブールでシュークルート(塩漬けキャベツの煮物)を食べたか
ったんですが・・・・・・」
「明日、エクセルシオールで食べよう」
「ル・パスタン」P179 1989年文藝春秋社刊
池波正太郎「ドンレミイの雨」
ドンレミイ橋 池波正太郎画
ジャンヌ・ダルクの村
かのジャンヌ・ダルクの生地、ドンレミイへ着いたのは二時三十五分である。
ジャンヌ・ダルクは千四百十二年に、この村で生まれた。
そして、親孝行な、気だてのやさしい娘になったジャンヌは、村外れの丘の
上の教会で、神のお告げを聞く。
「フランスの大太子を助けよ。王太子を戴冠させよ」
という、神のお告げは、再三にわたって、ジャンヌの胸を打つ。
ヨーロッパは、長い長い戦乱に明け暮れていた。
日本でも、応仁の乱の前兆とというべき足利幕府の内紛と、諸大名の争いが
はじまっていたころだ。
牛や羊の番や家事にいそしんでいたジャンヌが一変して、父母の反対を押し切
り、フランスを横断してシノンの城にいた王太子シャルルを訪ね、その信頼を受
け、武装に身をかため、白馬に打ちまたがり、兵をひきいて、フランスに侵入して
いたイギリス軍と戦う。
モウコは私に、
「よほど、ジャンヌ・ダルクがお好きなのですね」
というが、フランスを何度も旅していれば、ジャンヌとナポレオンの遺跡は、いた
るところにあるのだ。
ジャンヌが火刑にされたルーアンがはじまりで、オルレアン、シノン、コンピエー
ニュ、そして今日は彼女の生家を見ることになった。
厚い石造りの小さな家の中には、小さな明かりとりの小窓が二つか三つしかな
い。内部は暗く冷たかった。このあたりの冬はきびしいのだろう。だからこそ、厚
い石の家が必要だったのだ。
生家にあるジャンヌ・ダルクの石像は、フランスの諸方に存在する銅像とは全く
ちがう。
小肥りの、がっちりした躰つきの田舎娘の風貌が、
(これぞ、ジャンヌなのだ)
と、想わせてくれる。
外へ出ると、いつの間にか灰色の雲がドンレミイの村を被っていた。
「ドンレミイの雨」P139-141 1983年朝日新聞社刊
池波正太郎「包丁ごよみ」2
卯月
蛤
むかしの蛤は、庶民の食べ物だった。
飯に炊き込み、もみ海苔をかけて食べたり、葱と共に味噌で煮て丼飯へ
かけて掻き込む深川飯など、私も少年のころによく食べさせられたものだ。
かの[本草綱目]には、
「肺を潤し,胃を開き、腎を増し、酒を醒ます」
とあって、栄養価も高いのではないか。
伊勢の桑名の旅宿[船津屋] へ泊ると、朝の膳に蛤が入った湯豆腐が出る。
いまも出しているか、どうか・・・・・・。
この湯豆腐で酒をのむ旅の朝の一時は、何物にも替えがたかった。
いまの蛤は、なにしろ高い。
とても庶民の口へは入らね。
それでも、ほんとうに旨い蛤を食べさせる鮨屋や料理屋が東京にもないでは
ないが、仕入れは絶対に秘密である。私も知らぬ。
それほどに、蛤らしい蛤が滅びつつあるわけだろう。
(「味と映画の歳時記」より)
「包丁こよみ」P32 1991年新潮社刊
「近江山河抄」
日吉大社 大宮橋
穴太石組
日枝の山道
祭りとともに、日吉大社で有名なのは、石垣が美しいことである。石橋もみごと
だし、何げなく立っている石塔も美しい。ニの鳥居に向かって左側の、鶴喜のそ
ば屋の前を南へ進むと、穴太という集落があり、そこに、「穴太衆」と呼ばれる石
積み専門の集団がいた。比叡山が盛んであった頃は、山中の寺院や僧坊に、城
壁のような石垣を築き、僧兵の守りとしたが、近江に名城が少なくないのも、彼ら
のお陰をこうむっている。
穴太衆が叡山とともに栄えたのは、事実だが、それより古くからの伝統があったの
ではないか。穴太の山中には、景行天皇から三代にわたる(約六十年間)皇居の
跡があり、現在は「高穴穂神社」と呼ばれるが、その辺から滋賀の里へかけて、一
大古墳群がつずいている。
景山先生は、学者だから、賛成されないと思うが、私の想像では、穴太は穴掘りで、
古墳を築いた人々ではなかったか。古墳には必ず石室がともなうから、しぜん石組
の技術も巧くなる。近江には佐々貴の山君という陵墓造りの専門家もいたし、石仏
や石塔が多いことも前に述べた。それは後世の石庭にまで一筋につながる伝統で、
太古の磐坐から、現代の石造彫刻に至るまで、日本の石はその都度姿を変えて生
き長らえて来た。その功績の大部分は、近江にあるといっても過言ではない。
「近江山河抄」P117・118 1974年駸々堂出版社刊
「徒然草」きょうのひとこと12
鰹の扱い方 第一一九段
鎌倉の海に鰹という魚は、かの境にはさうなき物にて、このごろもてなす
ものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、おのれら若かり
し世までは、はかばかしき人の前へ出づくること侍らざりき。頭は下部も食
はず、切り捨て侍りしものなり」と申しき。かやうな物も、世の末になれば上
ざままでも入り立つわざにこそ侍れ。
鎌倉の海で鰹 という魚は、あの土地では無上の物で、近頃もてはやされて
いる。それでも、鎌倉の年寄が申しましたには、「この魚は、私らが若かった
時代までは、まともな人の前には出ることはございませんでした。頭は下賎な
者でも食べずに、切り捨てましたものです」ということだった。このような物
も、末世になると上層の食卓にまで 入り込むことでございます。
「徒然草・方丈記」P184 ちくま文庫刊
池波正太郎「包丁ごよみ」
四月 鯛
鯛は、魚類の王者だ。風姿、貫禄、味、ともに、その名をはずかしめぬ。
私が子供のころ、何かの拍子で、折詰の鯛が食卓にのぼると、
「これは、子供の食べるものじゃあない」
母や祖母にとりあげられてしまったものだ。
もっとも、子供は魚よりも肉のほうを好むから、さして食べたいとはおもわなかった。
鯛を食べるようになったのは、自分ではたらいた金を持つようになってからで、いっ
たん、鯛の味をおぼえると、もう、はなれられなくなってしまう。鯛は、千変万化の
調理に応じて、身から皮、骨までが、複雑微妙な味を出す。食べごろは春先だろうが、
通いなれた料理屋でも、鯛の刺身を口にして、
「ううむ・・・・・・」
おもわず唸り声をあげるほどに旨いときは、一年のうち、数えるほどだろう。
四国の今治の、近見山の料亭で、桜鯛の塩蒸しを、おもうさま食べたときの旨さは、い
まだに忘れない。芽しょうがをあしらった大皿に横たわった、その姿の立派さ、美しさに、
一瞬、箸がうごかなかった。
「包丁ごよみ」P28 1991年新潮社刊
「旅と小鳥と金木犀」5
「オブジェを求めて」15
Jean Renoir 「La Grande Illusion」
Jean Renoir「La Grande Illusion」 1937
「池波正太郎の春夏秋冬」
フランスの地方に魅せられて
ーはじめてヨーロッパ旅行をなさったのが昭和五十二年ということですが、その後は?
池波 ほぼ二年おきくらいに、これまで五回行きましたか。今年も五月か六月には行くこと
になっています。
ー 先生のユニークなヨーロッパ紀行には、フランスの誇り高い香りを感じます。そもそも
先生とフランスとの出逢いというものは?
池波 子供のころからね、フランスの映画とか小説には親しんでいたわけです。日本には他
の国のものより比較的早く入っていましたから。とても好きで、若いときから一度は行ってみ
たいと思っていました。でも、遠かったですよ、昔は。時間がかかってとても行けませんでした。
ーエールフランスが日本に乗り入れた三十五年前でも、二日近くかかりましたからね。とこ
ろで、先生お気に入りのBOFですが、居酒屋の。惜しかったですね、閉店してしまって。
池波 残念でしたね。セトル・ジャン老亭主とは仲良しになっていましたからね。ぶっきらぼうで
愛想のない人でしたが。
ーどんな店だったのですか?
池波 パンと地ワインが置いてあるだけの、安い居酒屋なんです。
ーご亭主と仲良しになったのはどういうきっかけでしたか?
池波 案内してくれた人が、「この人は日本のシムノンだ」とぼくを紹介してくれたのです。シムノ
ンはその店の常連ということで、亭主がすっかりぼくのことを気に入ってくれた。そういういきさつ
なんです。ジャン・ギャバンなんかも常連だったらしい。古き良きパリの一つだったのではないかな。
ーその後、お店はどうなったのでしょう。
池波 アメリカ人が店を買ったということだが、ぼくが四度目に行ったときはにはハンバーガー
ショップになっていましたよ。亭主には手紙を出してんだが、戻ってきてしまった。今度行ったら
その消息を訪ねようと思っています。亭主を主人公に小説を書いてみようかと思っているんです。
「池波正太郎の春夏秋冬」P85・86 1989年文藝春秋社刊
「オブジェを求めて」14
池波正太郎「ル・パスタン」
パリの居酒屋
この稿が本誌に掲載されるころ、私はフランスにいるだろう。
パリの旧中央市場の、すぐ前で、百五十年もつづいた[B・O・F]という酒場の老亭
主セトル・ジャンとポーレット夫妻の安否をたしかめることが、第一の目的だ。そし
て、日に日に変貌するパリの、旧態をとどめている二、三の場所を、変わってしま
わぬうちに見てくることが第二。
ジャン老人とは、十一年前に、初めてフランスへ行ったときに知り合ったのだが、
たがいに気持ちがぴたりと合って、以来、フランスへ行くたびに旧交をあたためて
きた。もしも、あと数年、私が健康でいられたなら、ジャン夫妻のことを小説にする
つもりだが、小説と随筆をまぜ合わせたような、これまでの私にはなかった小説に
なるだろう。
すでに、私は[ドンレミイの雨]という短編小説を書いて、セトル・ジャン夫婦を登場させ
ている。
酒場[B・O・F]は、いま、赤ペンキに塗られたハンバーガーの店に変わってしまい、ジャ
ンは行方不明だ。
わずかな手がかりをもって、パリへいくのだが、おそらく再会はかなうまい。
そして私は、トロワに近いエソワという村へも行く。えそワは、画家として有名なオーギュ
スト・ルノワールの妻アリーヌの故郷だ。
ジャン老人の一時代前に生きていたルノアールとは何の関係もないけれど、私の小説で
はルノアールも出て来るだろうし、ルノアールの息子ジャン・ルノアール(この、すばらしい
映画監督は、B・O・Fの常連だった)は登場するし、同じ息子のピエール(俳優)も出て来
るだろう。
映画俳優で、故人となったジャン・ギャバンも出て来るかも知れない。そういえば、はじめ
てフランスへ行ったときも、ある出版社からギャバンについての小冊子を書くようにいわれ
たのだった。
「ル・パスタン」P163 1989年文藝春秋社刊
「徒然草」きょうのひとこと11
Alphonse Daudet「La Chèvre de Monsieur Seguin」
Marlène Jobert Raconte : La chèvre de Monsieur Seguin
池波正太郎「江戸切絵図散歩」3
大川(1)
母が私を生んだころの、大川の水は清らかで、父方の祖父が、
「よく、沙魚を釣って来なすった」
そうだが、おそらく鰻や小さな鰈も釣れたにちがいない。
大川を対岸へ渡るには 竹屋の渡しとよばれた渡し舟に乗ったわけで、
「雪の朝なんか、何ともいえないほど景色がよくて、廣重の錦絵を見ているよう
だった・・・・・・」
と、母はいっていたが、おそらく、そのとおりだったろう。
聖天町から今戸,橋場、さらにさかのぼって千住大橋のあたりは、私の小説の
舞台だ。このあたりの風色を何度書いたか知れない。
仕掛人・藤枝梅安がなじみの料亭[井筒]は橋場にあるし、剣客商売の、秋山小兵衛
隠宅は川向うの鐘ヶ淵にある。
「江戸切絵図散歩」P12・13 1989年新潮社刊
池波正太郎「旅は青空」
グラナダの落日
つぶやいてタバコに火をつけ、窓外へ目をやったとたん、おもわず私は息をのんで
しまった。
壮麗きわまる落日の光景が展開している。
目をさえぎる何物もなく、夕焼けの大空とグラナダ市街がパノラマのようにひろがり、
落日の真紅が濃さを増すにつれて、中空に星が輝きはじめる。
私は、窓を一杯に開けはなち、また、ベットへ寝ころんだ。
日本とは大気がちがう。ために、上空から降りて来る夜の闇も桔梗色に冴えわたって、
ホテルの崖下の小学校では、まだ、子供たちが遊ぶ声が立ちのぼっていた。
長い長い落日だった。
市街そのものには、さして趣もないグラナダも、夜空と血のような残光に彩られると、す
ばらしいの一語につきる。
星が光りを増し、街に黄と白の灯がともりはじめた。
フランスの田舎でも,ずいぶん、落日の光景を見たが、色も光も、もっとやわらかい。
スペインの 真昼の太陽の輝きも強烈だが、この夕焼けも雄麗といってよい。
(この、グラナダの落日を、こんなにゆっくりと見ただけでも、スペインへ来てよかった)
そうおもった。
「旅は青空」 1981年新潮社刊
Manoel de Oliveira「O Pintor e a Cidade」
O Pintor e a Cidade (Manoel de Oliveira, 1956)
Manoel de Oliveira「Lisbon Story」
Wim Wenders "Lisbon Story" (1994)
岡潔 きょうのひとこと15
Manoel de Oliveira「Vale Abraão」
Vale Abraão ( Manoel de Oliveira - 1993)
Manoel de Oliveira「Um Filme Falado」
Um Filme Falado (2003) De Manoel de Oliveira
モリエール「孤客」(ミザントロオプ)
Comédie Française (2000)
芭蕉きょうの一句10
最近買った本
Henri Matisse「Jazz」17
岡潔きょうのひとこと14
最近見た映画「永遠の語らい」
池波正太郎「江戸切絵図散歩」2
第四章 築地界隈
新富町といえば、新富座があったところで、故溝口健二監督がつくった名作[残菊物語]
に、三十軒堀の河岸道を撮ったシーンが出てくる。
この映画は、五代目・菊五郎の息・菊之助と乳母のおとくの悲恋を描いたもので、夏の
夜ふけに、菊之助が夜遊びから帰って来ると、夏の暑さにむずかる赤ん坊(これが六代目
菊五郎となる)を抱いたおとくと出合う。
キャメラを三十軒堀に置き、河岸道を仰ぐかたちで、長い移動撮影により、たっぷりと、明
治初期の新富町の河岸の情景を観せてくれた。
この場面はセットだったが、実に見事なセット撮影で、風鈴を売る男の呼び声がきこえてく
る。
そのころの、その時間には、風鈴屋が商売をしていたのだ。なんという、世の中のゆとりだ
ったろう。
いまも、そのシーンが目にやきついてはなれない。
「江戸切絵図散歩」P34 1989年新潮社刊
池波正太郎「江戸切絵図散歩」
第五章 日本橋
日本橋界隈と青春期の私とは、切っても切れぬ関係がある。何となれば、小学校
を卒業するや、私は茅場町にある株式仲買店T商店の小店員となり、後に兜町の
同業M商店へ移り、太平洋戦争が始まって、徴用令を受けるまで、この土地をはな
れずはたらいていたからだ。
T商店は、裏南茅場町にあり、店の裏通りに[保米楼]という旨い洋食屋があった。
店員の慰労旅行などには、支配人が、
「今度は一つ、保米楼のサンドイッチをもって行くか」
などといった。
このあたりに、たしか、故谷崎潤一郎氏の生家があったはずだ。
私がT商店からM商店へ移ったのは、Tが嫌になったからではない。住み込みでは
なく、通勤ではたらきたかったからで、通勤となれば、何といっても自由な時間が増
えるからだった。
M商店へ転じ、小づかいも増えるようになり、保米楼へ行ってビーフ・カツレツなどを
やっていると、T商店の主人が入って来て、
「正どん。お前、まだ保米楼は早いよ」
などと、叱られたことがある。
私はこの旧主人が好きだったし、旧主人もまた私を可愛がってくれた。
「江戸切絵図散歩」P36 1989年新潮社刊
Erich von Stroheim
Erich von Stroheim: Foolish Wives (1922)
「フローラ逍遥」6桜
幻妖なるフローラ
私の家にも、毎年いっぱいに花をつける桜の老木がある。ただし、これは八重
咲きの俗称ボタンザクラという品種で、花期がきわめて遅く、四月の終わりからゴー
ルデンウイークにかけてようやく満開になる。紅色が濃く、花が厚ぼったくてぼってり
しているため、満開になると鬱陶しいくらいに妖艶なふぜいを見せる。ソメイヨシノの
清楚な感じからはずいぶん遠いが、この満開の老木の下で酒をのんでいると、盃の
なかにふわりと花びらの一片が落ちてきたりして、ちょっといい気分になる。友だちを
あつめてお花見をしたことも一再ならずで、文字通り姥桜だけれども、私にとっては
思い出の多い愛すべきフローラとなっている。
「フローラ逍遥」」P65 1996年平凡社ライブラリー刊