KATZのFLEURCAFE

KATZのフルールカフェへようこそ!!フルールカフェではKATZが収集した本・CD・DVDなどを中心に気ままに展示し,皆さまのお越しをお待ちしております。ご自由にお愉しみくださいませ。よろしくお願い申し上げます。ほぼ毎日更新中でございます。

2015年04月

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   シャンデリア   ボードレール|「赤裸の心」

 演劇に関するぼくの意見。

 子どものときから、そして今でも、ぼくがいつも劇場でいちばん美しいと

 思うもの、それはシャンデリアだ。

 ー かがやかしく、透明で、複雑で、円を描き、しかも左右対照的な、美

 しい物体。


   「オブジェを求めて」P188   1985年河出書房新社刊
 
 

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    フランス日記(六)

 ナンシーは、十八世紀のころ、当時の領主だったスタニスラス大公がロココ

 様式をもって、つくりあげた街である。また、アール・ヌーボーの発祥地といわ

 れる。ホテルは大公の銅像があるスタニスラス広場の一角にあった。十八世

 紀に建てられ た大邸宅をホテルにしたもので、白亜の典雅な建築だ。ロビイ

 からの階段など、実に美しい。


 早速、外へ出て、広場に近いお菓子屋で[ベルガモット] と称するボンボンを買

 う。味は日本の鼈甲飴に似ている。この前にナンシーへ来たときも、同じ店で

 [ベルガモット]を買った。

 菓子屋の女主人は、「ムッシューを、おぼえています」と、いった。私も、この店へ

 寄ったことがヒントになって[ドンレミイの雨]という短編を書くことができたのだっ

 た。このホテルは美しい上に快適で、食堂もよかった。夜は雷雨になる。雷雨の

 後のスタニスラス広場は何としても写真を撮らずにはいられなかった。この広場

 や奥にある宮殿の建築は、フランスのみかイタリアからも画家や建築家が移って

 来て、職人を指導したとおもわれる。

 夕飯は、またしてもフォアグラの厚切りと牛肉の塩焼きにする。Yが、

 「痛風、大丈夫でしょうか?」

 と、心配してくれた。

 明日は、ストラスブールへ行くつもりだが、

 「もう一日、此処でのんびりしよう。洗濯もあるしね」

 「ぼくは、ストラスブールでシュークルート(塩漬けキャベツの煮物)を食べたか

 ったんですが・・・・・・」

 「明日、エクセルシオールで食べよう」


     「ル・パスタン」P179   1989年文藝春秋社刊
 

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                ドンレミイ橋 池波正太郎画

    ジャンヌ・ダルクの村

  かのジャンヌ・ダルクの生地、ドンレミイへ着いたのは二時三十五分である。

  ジャンヌ・ダルクは千四百十二年に、この村で生まれた。

  そして、親孝行な、気だてのやさしい娘になったジャンヌは、村外れの丘の

  上の教会で、神のお告げを聞く。

  「フランスの大太子を助けよ。王太子を戴冠させよ」

  という、神のお告げは、再三にわたって、ジャンヌの胸を打つ。

  
  ヨーロッパは、長い長い戦乱に明け暮れていた。

  日本でも、応仁の乱の前兆とというべき足利幕府の内紛と、諸大名の争いが

  はじまっていたころだ。

  牛や羊の番や家事にいそしんでいたジャンヌが一変して、父母の反対を押し切

  り、フランスを横断してシノンの城にいた王太子シャルルを訪ね、その信頼を受

  け、武装に身をかため、白馬に打ちまたがり、兵をひきいて、フランスに侵入して
 
  いたイギリス軍と戦う。


  モウコは私に、

  「よほど、ジャンヌ・ダルクがお好きなのですね」

  というが、フランスを何度も旅していれば、ジャンヌとナポレオンの遺跡は、いた

  るところにあるのだ。

  ジャンヌが火刑にされたルーアンがはじまりで、オルレアン、シノン、コンピエー

  ニュ、そして今日は彼女の生家を見ることになった。

  厚い石造りの小さな家の中には、小さな明かりとりの小窓が二つか三つしかな

  い。内部は暗く冷たかった。このあたりの冬はきびしいのだろう。だからこそ、厚

  い石の家が必要だったのだ。

  生家にあるジャンヌ・ダルクの石像は、フランスの諸方に存在する銅像とは全く

  ちがう。

  小肥りの、がっちりした躰つきの田舎娘の風貌が、

  (これぞ、ジャンヌなのだ)

  と、想わせてくれる。

  外へ出ると、いつの間にか灰色の雲がドンレミイの村を被っていた。


   「ドンレミイの雨」P139-141   1983年朝日新聞社刊

  

  

   

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      卯月

   蛤

 むかしの蛤は、庶民の食べ物だった。

 飯に炊き込み、もみ海苔をかけて食べたり、葱と共に味噌で煮て丼飯へ 

 かけて掻き込む深川飯など、私も少年のころによく食べさせられたものだ。

 
 かの[本草綱目]には、

 「肺を潤し,胃を開き、腎を増し、酒を醒ます」

 とあって、栄養価も高いのではないか。

 
 伊勢の桑名の旅宿[船津屋] へ泊ると、朝の膳に蛤が入った湯豆腐が出る。

 いまも出しているか、どうか・・・・・・。

 この湯豆腐で酒をのむ旅の朝の一時は、何物にも替えがたかった。

 いまの蛤は、なにしろ高い。

 とても庶民の口へは入らね。

 それでも、ほんとうに旨い蛤を食べさせる鮨屋や料理屋が東京にもないでは

 ないが、仕入れは絶対に秘密である。私も知らぬ。

 それほどに、蛤らしい蛤が滅びつつあるわけだろう。

    (「味と映画の歳時記」より) 

  
   「包丁こよみ」P32     1991年新潮社刊 

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                                                           日吉大社 大宮橋
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                           穴太石組


     日枝の山道

 祭りとともに、日吉大社で有名なのは、石垣が美しいことである。石橋もみごと

 だし、何げなく立っている石塔も美しい。ニの鳥居に向かって左側の、鶴喜のそ

 ば屋の前を南へ進むと、穴太という集落があり、そこに、「穴太衆」と呼ばれる石

 積み専門の集団がいた。比叡山が盛んであった頃は、山中の寺院や僧坊に、城

 壁のような石垣を築き、僧兵の守りとしたが、近江に名城が少なくないのも、彼ら

 のお陰をこうむっている。


 穴太衆が叡山とともに栄えたのは、事実だが、それより古くからの伝統があったの

 ではないか。穴太の山中には、景行天皇から三代にわたる(約六十年間)皇居の

 跡があり、現在は「高穴穂神社」と呼ばれるが、その辺から滋賀の里へかけて、一

 大古墳群がつずいている。


 景山先生は、学者だから、賛成されないと思うが、私の想像では、穴太は穴掘りで、

 古墳を築いた人々ではなかったか。古墳には必ず石室がともなうから、しぜん石組

 の技術も巧くなる。近江には佐々貴の山君という陵墓造りの専門家もいたし、石仏

 や石塔が多いことも前に述べた。それは後世の石庭にまで一筋につながる伝統で、

 太古の磐坐から、現代の石造彫刻に至るまで、日本の石はその都度姿を変えて生

 き長らえて来た。その功績の大部分は、近江にあるといっても過言ではない。


    「近江山河抄」P117・118  1974年駸々堂出版社刊

  

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      鰹の扱い方   第一一九段

   鎌倉の海に鰹という魚は、かの境にはさうなき物にて、このごろもてなす

   ものなり。それも、鎌倉の年寄の申し侍りしは、「この魚、おのれら若かり

   し世までは、はかばかしき人の前へ出づくること侍らざりき。頭は下部も食

   はず、切り捨て侍りしものなり」と申しき。かやうな物も、世の末になれば上

   ざままでも入り立つわざにこそ侍れ。


   鎌倉の海で鰹 という魚は、あの土地では無上の物で、近頃もてはやされて

   いる。それでも、鎌倉の年寄が申しましたには、「この魚は、私らが若かった

   時代までは、まともな人の前には出ることはございませんでした。頭は下賎な

   者でも食べずに、切り捨てましたものです」ということだった。このような物

   も、末世になると上層の食卓にまで 入り込むことでございます。


     「徒然草・方丈記」P184    ちくま文庫刊 

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      四月    鯛

    鯛は、魚類の王者だ。風姿、貫禄、味、ともに、その名をはずかしめぬ。
    私が子供のころ、何かの拍子で、折詰の鯛が食卓にのぼると、
    「これは、子供の食べるものじゃあない」
    母や祖母にとりあげられてしまったものだ。
    もっとも、子供は魚よりも肉のほうを好むから、さして食べたいとはおもわなかった。

    鯛を食べるようになったのは、自分ではたらいた金を持つようになってからで、いっ
    たん、鯛の味をおぼえると、もう、はなれられなくなってしまう。鯛は、千変万化の
    調理に応じて、身から皮、骨までが、複雑微妙な味を出す。食べごろは春先だろうが、
    通いなれた料理屋でも、鯛の刺身を口にして、
    「ううむ・・・・・・」
    おもわず唸り声をあげるほどに旨いときは、一年のうち、数えるほどだろう。

    四国の今治の、近見山の料亭で、桜鯛の塩蒸しを、おもうさま食べたときの旨さは、い
    まだに忘れない。芽しょうがをあしらった大皿に横たわった、その姿の立派さ、美しさに、
    一瞬、箸がうごかなかった。


         「包丁ごよみ」P28   1991年新潮社刊

 

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    2003年4月◯日

  春、らんまん。

  この季節、東京の街を運転しながら、桜の木の多さに改めて驚く。

  ああ、この木も、この並木も、桜だったんだ。


  あの、うすももいろの、はかない、何ともいえない色を見ていると、

  なんだか甘酸っぱい切ない気持ちになるのはなぜだろう。

  どうか来年も健やかに幸せな気持ちで桜を見ることができますように、

  などと心の奥深くで思う。


  日を追うごとにぬくぬくと暖かくなり、草木の芽吹く、青いにおいが、そこ

  かしこに立ちこめる。

  4月は,「生き物」としてはいそがしい季節だなあ、と思う。 



     「旅と小鳥と金木犀」P117   2005年幻冬舎刊 

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      螺旋     フローベール|「狂人の手記」

   おお、無限なるものよ!無限なるものよ!広大な深淵、奈落から未知なる

   最高の天界にまでおよぶ螺旋よ、われわれすべてがその中で、めくるめき

   ながら旋回している古来の観念よ。


    「オブジェを求めて」P100   河出書房新社刊

    

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      フランスの地方に魅せられて

  ーはじめてヨーロッパ旅行をなさったのが昭和五十二年ということですが、その後は?

池波 ほぼ二年おきくらいに、これまで五回行きましたか。今年も五月か六月には行くこと
になっています。

  ー 先生のユニークなヨーロッパ紀行には、フランスの誇り高い香りを感じます。そもそも
先生とフランスとの出逢いというものは?

池波 子供のころからね、フランスの映画とか小説には親しんでいたわけです。日本には他
の国のものより比較的早く入っていましたから。とても好きで、若いときから一度は行ってみ
たいと思っていました。でも、遠かったですよ、昔は。時間がかかってとても行けませんでした。

  ーエールフランスが日本に乗り入れた三十五年前でも、二日近くかかりましたからね。とこ
ろで、先生お気に入りのBOFですが、居酒屋の。惜しかったですね、閉店してしまって。

池波 残念でしたね。セトル・ジャン老亭主とは仲良しになっていましたからね。ぶっきらぼうで
愛想のない人でしたが。

  ーどんな店だったのですか?

池波 パンと地ワインが置いてあるだけの、安い居酒屋なんです。

  ーご亭主と仲良しになったのはどういうきっかけでしたか?

池波 案内してくれた人が、「この人は日本のシムノンだ」とぼくを紹介してくれたのです。シムノ
ンはその店の常連ということで、亭主がすっかりぼくのことを気に入ってくれた。そういういきさつ
なんです。ジャン・ギャバンなんかも常連だったらしい。古き良きパリの一つだったのではないかな。

  ーその後、お店はどうなったのでしょう。

池波 アメリカ人が店を買ったということだが、ぼくが四度目に行ったときはにはハンバーガー
ショップになっていましたよ。亭主には手紙を出してんだが、戻ってきてしまった。今度行ったら
その消息を訪ねようと思っています。亭主を主人公に小説を書いてみようかと思っているんです。


     「池波正太郎の春夏秋冬」P85・86  1989年文藝春秋社刊  

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      翼を買う    ジョセフ・グランドヴィル|「独断の空しさ」

   後世のひとびとにとって、遠隔の地へ飛んでゆくために一対の翼を買うことは、

   今日のひとびとが馬で旅するために、一足の長靴を買うことと同じほどに普通

   のこととなろう。


      「オブジェを求めて」P166   1985年河出書房新社刊
 

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    パリの居酒屋

  この稿が本誌に掲載されるころ、私はフランスにいるだろう。
  パリの旧中央市場の、すぐ前で、百五十年もつづいた[B・O・F]という酒場の老亭
     主セトル・ジャンとポーレット夫妻の安否をたしかめることが、第一の目的だ。そし
     て、日に日に変貌するパリの、旧態をとどめている二、三の場所を、変わってしま
     わぬうちに見てくることが第二。
 
  ジャン老人とは、十一年前に、初めてフランスへ行ったときに知り合ったのだが、
  たがいに気持ちがぴたりと合って、以来、フランスへ行くたびに旧交をあたためて
  きた。もしも、あと数年、私が健康でいられたなら、ジャン夫妻のことを小説にする
  つもりだが、小説と随筆をまぜ合わせたような、これまでの私にはなかった小説に
  なるだろう。
  すでに、私は[ドンレミイの雨]という短編小説を書いて、セトル・ジャン夫婦を登場させ
  ている。

  酒場[B・O・F]は、いま、赤ペンキに塗られたハンバーガーの店に変わってしまい、ジャ
  ンは行方不明だ。
  わずかな手がかりをもって、パリへいくのだが、おそらく再会はかなうまい。
  そして私は、トロワに近いエソワという村へも行く。えそワは、画家として有名なオーギュ
  スト・ルノワールの妻アリーヌの故郷だ。

  ジャン老人の一時代前に生きていたルノアールとは何の関係もないけれど、私の小説で
  はルノアールも出て来るだろうし、ルノアールの息子ジャン・ルノアール(この、すばらしい
     映画監督は、B・O・Fの常連だった)は登場するし、同じ息子のピエール(俳優)も出て来
  るだろう。
  映画俳優で、故人となったジャン・ギャバンも出て来るかも知れない。そういえば、はじめ
  てフランスへ行ったときも、ある出版社からギャバンについての小冊子を書くようにいわれ
     たのだった。


      「ル・パスタン」P163    1989年文藝春秋社刊
  
 

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      大川(1)

   母が私を生んだころの、大川の水は清らかで、父方の祖父が、
  「よく、沙魚を釣って来なすった」
   そうだが、おそらく鰻や小さな鰈も釣れたにちがいない。

   大川を対岸へ渡るには 竹屋の渡しとよばれた渡し舟に乗ったわけで、
  「雪の朝なんか、何ともいえないほど景色がよくて、廣重の錦絵を見ているよう
  だった・・・・・・」
  と、母はいっていたが、おそらく、そのとおりだったろう。
  聖天町から今戸,橋場、さらにさかのぼって千住大橋のあたりは、私の小説の
  舞台だ。このあたりの風色を何度書いたか知れない。

  仕掛人・藤枝梅安がなじみの料亭[井筒]は橋場にあるし、剣客商売の、秋山小兵衛
  隠宅は川向うの鐘ヶ淵にある。


    「江戸切絵図散歩」P12・13  1989年新潮社刊
 

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      グラナダの落日 

   つぶやいてタバコに火をつけ、窓外へ目をやったとたん、おもわず私は息をのんで
  しまった。
   壮麗きわまる落日の光景が展開している。
   目をさえぎる何物もなく、夕焼けの大空とグラナダ市街がパノラマのようにひろがり、
  落日の真紅が濃さを増すにつれて、中空に星が輝きはじめる。

   私は、窓を一杯に開けはなち、また、ベットへ寝ころんだ。
   日本とは大気がちがう。ために、上空から降りて来る夜の闇も桔梗色に冴えわたって、
  ホテルの崖下の小学校では、まだ、子供たちが遊ぶ声が立ちのぼっていた。

   長い長い落日だった。

   市街そのものには、さして趣もないグラナダも、夜空と血のような残光に彩られると、す
  ばらしいの一語につきる。

   星が光りを増し、街に黄と白の灯がともりはじめた。

   フランスの田舎でも,ずいぶん、落日の光景を見たが、色も光も、もっとやわらかい。
   スペインの 真昼の太陽の輝きも強烈だが、この夕焼けも雄麗といってよい。
   (この、グラナダの落日を、こんなにゆっくりと見ただけでも、スペインへ来てよかった) 
   そうおもった。

     
            「旅は青空」   1981年新潮社刊 

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     生命(続く)

   ところで、このメロディーを包むために時空がある。人のメロディーは時空のガラス

  戸の中に保護されているわけである。大自然はそんなふうにして人を作っているよう

  に見える。


   しかし、時空は本来” ある”というものではない。本当は時空の中にメロディーがある

  のではなく、メロディーに中に時空があるといえる。


      「春風夏雨」 P18

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   しばらくは花の上なる月夜かな     初蝉(真蹟短冊・喪の名残)


  満開の花の上に月がさしかかり、絶景の今宵であることだ。


    「芭蕉全句集」P122      角川ソフィア文庫

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    生命(つづく)

  「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」の世界、無差別智の大海

 の中からとってくるのだ。幼な児にはそんなことはできないと思うには何も知ら

 ないからだといってよい。

    
    岡潔「春風夏雨」P18   角川ソフィア文庫 

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    第四章 築地界隈

   新富町といえば、新富座があったところで、故溝口健二監督がつくった名作[残菊物語] 
  に、三十軒堀の河岸道を撮ったシーンが出てくる。
   この映画は、五代目・菊五郎の息・菊之助と乳母のおとくの悲恋を描いたもので、夏の
  夜ふけに、菊之助が夜遊びから帰って来ると、夏の暑さにむずかる赤ん坊(これが六代目
  菊五郎となる)を抱いたおとくと出合う。

   キャメラを三十軒堀に置き、河岸道を仰ぐかたちで、長い移動撮影により、たっぷりと、明
  治初期の新富町の河岸の情景を観せてくれた。
   この場面はセットだったが、実に見事なセット撮影で、風鈴を売る男の呼び声がきこえてく
  る。
   そのころの、その時間には、風鈴屋が商売をしていたのだ。なんという、世の中のゆとりだ
  ったろう。

   いまも、そのシーンが目にやきついてはなれない。


     「江戸切絵図散歩」P34   1989年新潮社刊 

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    第五章 日本橋

  日本橋界隈と青春期の私とは、切っても切れぬ関係がある。何となれば、小学校
 を卒業するや、私は茅場町にある株式仲買店T商店の小店員となり、後に兜町の
 同業M商店へ移り、太平洋戦争が始まって、徴用令を受けるまで、この土地をはな
 れずはたらいていたからだ。

  T商店は、裏南茅場町にあり、店の裏通りに[保米楼]という旨い洋食屋があった。
  店員の慰労旅行などには、支配人が、
  「今度は一つ、保米楼のサンドイッチをもって行くか」
  などといった。

  このあたりに、たしか、故谷崎潤一郎氏の生家があったはずだ。
  私がT商店からM商店へ移ったのは、Tが嫌になったからではない。住み込みでは
 なく、通勤ではたらきたかったからで、通勤となれば、何といっても自由な時間が増
 えるからだった。

  M商店へ転じ、小づかいも増えるようになり、保米楼へ行ってビーフ・カツレツなどを
 やっていると、T商店の主人が入って来て、
  「正どん。お前、まだ保米楼は早いよ」
  などと、叱られたことがある。

  私はこの旧主人が好きだったし、旧主人もまた私を可愛がってくれた。


    「江戸切絵図散歩」P36   1989年新潮社刊

  

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            幻妖なるフローラ

   私の家にも、毎年いっぱいに花をつける桜の老木がある。ただし、これは八重

 咲きの俗称ボタンザクラという品種で、花期がきわめて遅く、四月の終わりからゴー

 ルデンウイークにかけてようやく満開になる。紅色が濃く、花が厚ぼったくてぼってり

 しているため、満開になると鬱陶しいくらいに妖艶なふぜいを見せる。ソメイヨシノの

 清楚な感じからはずいぶん遠いが、この満開の老木の下で酒をのんでいると、盃の

 なかにふわりと花びらの一片が落ちてきたりして、ちょっといい気分になる。友だちを

 あつめてお花見をしたことも一再ならずで、文字通り姥桜だけれども、私にとっては

 思い出の多い愛すべきフローラとなっている。


   「フローラ逍遥」」P65    1996年平凡社ライブラリー刊 

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        セトル・ジャンとの再会(続)

   [B・O・F] は、ジョルジュ・シムノンが愛した店で、シムノンは有名なメグレ物
    の著書の表紙にセトル・ジャンの写真を使ったこともある。

   はじめて、この店に行ったとき、当時はパリ在住だった写真家の吉田大朋
     さんが、私のことを、そのときは、むっつりとはたらいていたセトル・ジャンに、
   「この人は、日本のシムノンだ」
   などと大げさに紹介したものだから、ジャン老人は大いによろこんでくれ、自
     分の 写真が表紙になっているシムノンの本を出して来て、私に見せてくれたり
     して、それから仲よくなったのだ。

    
      「田園の微風」 P152・153   1981年講談社刊

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    吟行

  菜畠に花見顔なる雀哉      泊船集本野ざらし紀行


 菜の花畑で、雀がいかにも花見をしているといった顔でいることだ。


  「芭蕉全句集」P87     角川ソフィア文庫
 

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